思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

主観、客観論争ー第2弾です。今本(哲学者)・武田(恋知者・教育者)・平野(ホリスティック教育)

2006-01-09 | メール・往復書簡

この下のブログの続きです。
(公共哲学ML内でのメール対話)


武田 様
今本秀爾@哲学者です。
以下、現象学的意味論を前提として書かれていることを承知のうえで、若干コメントさせていただきます。

「 論説文を、「部分」に拘らずに「全体」の意味を「文脈」に沿って読み取ること。
算数―数や図形の問題を、身の回りの物や出来事と結びつけて、意味として捉えること。」(武田)

以上は拙著でカントを引用し、「分析的判断」に対する「総合的判断」能力と対応させてみたものです。
日本の国家官僚やエリート学者は「分析的判断」は優秀ですが、「総合的判断」は大の苦手のようです。

「概念にすぎないものを、体験=直観として、目に見えるように、手に触れるようにつかもうと努力すること。」(武田)

まさに「直観なき概念は空虚」ということですね。

「こういうほんらいの知の基本を自覚的に追求するー愚直に手間ひまをかけてやる。何事も心身の全体でつかむ練習をする。それが民知(ほんらいの知)の実践で、何より必要とされるものだと思っています。」(武田)

ホリスティック教育(あるいは全人教育)という分野があり、一部で流行しているようですが、それとの関連性はどうなのでしょうか?
また最近「体験学習」という言葉もよく耳にしますが、それと「民知」の相違点があればお聞かせください。

「思考―言論の訓練といえば、欧米に倣って「ディベート」と言いますが、それは古代ギリシャでソフィストたちが実践し、教えていたもの。そうではなく、思考―言論を鍛えるのは、何がほんとうなのか?善美なのか?を目がけて行う「ディアレクティケー」(問答法=対話法)であり、そのことは、アメリカでもマシュー・リップマンが実践(「6歳からのソクラテス教室」)しています。」(武田)

以上も拙論に引用した、重要な指摘です。
ハウツー本が書店の新刊コーナーに氾濫する昨今、「How?」ではなく「What?」への問いが忘れられつつあります。
自然ー社会科学的思考はHow を問うだけで満足しますが、哲学的(形而上学的)思考では What の問いこそが基本です。
××評論家にせよ、御用学者にせよ、昨今の論壇はソフィストたちばかりなのでしょう。

ちなみに私は大学学部時代より、ヤスパースという哲学者の書いた書物の現代的意義を究めようとしてきた者ですが、教育論の文脈において、こうしたディアレクティケーによる「ソクラテス的教育」という方法論を最初に提唱したのは彼であったように聞いています。(『教育の哲学的省察』以文社、1983年)

―――――――――――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

はじめに、
私の立場についてちょっと説明します。
若いころ私は、サルトルやメルロ・ポンティーの訳者で哲学者の竹内芳郎氏に師事していました(一番弟子といってもよいでしょう)。
しかし、私ははじめから研究者になる意思はなく、思索の実践者として生きてきました。
大学という閉じたフィールドで思索する?とは、私にとっては無意味なことです。
音楽を比喩とすれば、私は作曲家であり、音楽学者や批評家ではないのです。
したがって、考えることは、実践的な課題・問題(思考対象や内容がどんなに抽象度の高いものであれ)についてであり、しかもそれは、いつも実践・行動と織り合わされています。

ご質問にお答えしますが、
民知とは、生活の中の具体的経験に照らして、意味としてつかむ知のことです。
ホリスティック教育については、その実態を私は知りません(京都の平野さんが取り組まれているとのことです)。
体験は、学習の原理的な基盤であり、ほんらい全ての学習は体験に基づかなければならないはずです。

「ディアレクティケーによる『ソクラテス的教育』という方法論を最初に提唱したのはヤスパース」、ということは知りませんでした。

また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています。
また、ゆっくり語ります。

では、今晩はこのへんで。
―――――――――――――――――――――――――――――

武田さん、今本さん、みなさん 平野慶次@京都です。

 ホリステッィク教育の日本での普及の推進者の一人ですが、全人教育というと少し
誤解があると思っています。

 武田さんの言う「民知」もいわば、知の全体性に及ぶと感じているのですが、全人
教育と言うのは、歴史的な経緯で特殊なカテゴリーを形成してきたと思っています。


 本来の全人教育と言う言葉から発すれば、正にホリスティック教育だと思いますが、
教育哲学の歴史から言えば違うと言わざるを得ません。

 未だ出版されていない本ですが、「モンテッソーリ教育小辞典」が学苑社から出る
予定ですが、その中に項目執筆させて戴いたのが、ホリスティック教育でした。ご要
望があれば、DMで送らせて戴きます。

 明日は、フィロソフィア京都で盛り上がる予定ですので、あさってには送ることが
できると思っています。

> また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界
> を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で
> 普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています
> 。

 この点は、全く同感です。本当にまずいと思います。「客観性」というレトリック
を信じることはできないです。あるのはただ主観ないし、想像し得る主観だと思って
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
武田さん、平野さん、皆様
 
今本秀爾@哲学者(としての立場で語っている)です。

> > また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界
> > を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で
> > 普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています
> > 。
> > また、ゆっくり語ります。
>
> この点は、全く同感です。本当にまずいと思います。「客観性」というレトリック
> を信じることはできないです。あるのはただ主観ないし、想像し得る主観だと思って
> います。
 
恐らく武田さんの言われる文脈とさほどズレてはいないと思うわけですが、以上は単なる
「主観的真理」を「客観的真理」と偽って主張し、相手に強要しようとする「主観性の暴力」という文脈においてあてはまる批判に相当するだろう、ということです。(=独裁者やカルト教祖などの常套手段)しかもそれらが単なる「主観的真理」にすぎないことを暴くのは、「批判的-客観的」思考です。

一方で、「客観性」という言葉の使用法の歴史としては、吟味も承認もなく「客観的真理」を最初から公然と主張する思想は真の客観的真理ではない、「疑似客観性」である、という言い方が正論だろうということです。
この点では、哲学も諸科学も「客観性」(=検証や実証、承認を経たものという意味)という価値を歴史的に重視(尊重)してきましたから、この概念自体がレトリックではありませんし、ネガティブな印象を持たせるのはよくないでしょう。
たとえば世界平和という普遍的目標においては、普遍的なルールとなりうる国際法や条約、ないしはその理念が「客観性(普遍妥当性)」にあたります。いわば客観性に到達することは私たちの目標であり、それを成立させるための基礎条件だからです。

また個人の発話レベルでも、思うに任せた「主観的な発言」と他者を意識した「客観的な発言」とは区別可能でしょう。「客観性」とはこの場合、極力自分の主観を相対化し、最大公約数的な真理を求めて述べようとした発言内容ないしはその発言姿勢をさすわけです。これは発言内容が中立的観点を踏まえた自己批判を経たものであるかどうかで区別されます。

たとえば私たちの会話のやりとりが今ぎくしゃくせずに成立していますが、これは互いの話者が「主観性」の領域にとどまらず、自分の主観的信念をいったん括弧でくくり、そこから距離をおいた「客観的志向」に則ってできるだけ中立的に語ろうとする努力(志向)していることの成果だといえます。
これと正反対な態度が、自分自身の思想(思考)をひたすら正当化し、相手にただ共感や同意だけを強要し、いかなる批判や異論をも受け付けようとしない「主観性の暴力」に則った態度です。これが昂じると、他人の人格に対する誹謗中傷や感情論、やがては紛争や戦争にまで発展していくということになります。

そこで現実の世界を変えていくための思想上の核心は、ただの主観ないしは主観性の延長ではなく、(「客観的真理」と区別された)「客観的思考(志向)」ないしは「客観性」という最大公約数的な普遍的・客観的基準を実現できるよう、模索し努力していくという英知であると私は考えます。

これは「主観性(モノローグ的語り)の暴力=イデオロギー」に対する本来の哲学的-対話的思考を意味します。
ディアレクティケーが成立するためには、その話者が自分の思想や発言に対する自己批判・自己省察の仕方、すなわち基礎的な論理学や論理的思考を習得できており、相手の批判を受け入れるキャパシティを備えていることが不可欠の条件となるからです。ソクラテスに「そうすると君の考えは成り立たなくなるね」と言われて、むきになったりカッとなってしまえば、そこでディアレクティケーは成立せず破綻します。
互いがどこまで「理詰め」の思考に耐えられるかが、ディアレクティケー成立の条件です。

伝統的に「理屈」を軽蔑してきた私たち日本人は、相手の感情から意見の中身を「客観的に」汲み取る作業が大の苦手ですが、その結果、主観の数だけ真理があるという価値相対主義が容易に成立し、どんな小さな組織やグループの中においても小競り合いや相手の人格中傷を起こし、大きな目標をことごとく見失い、自暴自棄を繰り返してきたのが、日本の(とくに戦後の)市民運動の歴史といえるのではないか、とも私は分析しています。

繰り返しますが、日本社会を改善するうえでの最大のテーマは、伝統的な「主観的相対主義」をいかに克服するか、すべての個人が「合理性」や「客観性」をいかに尊重し、フェアで公正な観点をいかに想像=創造していこうと努力できるか、偏にそのことに掛かっているとみています。
こうした物事の合理性や客観性を尊重する教育はこれまで日本の社会ではまったくなされてきませんでした。
その結果、実際には主観性のかたまりとなったリバタリアン的自由主義観の謳歌と、モラル・ハザード、公衆倫理の喪失、公共性の崩壊・・・・という「主観的相対主義」さながらの世界が闊歩しています。

現実を変えるための社会の改革、民主主義や平和の実現においては、少なくともその主役となるであろう担い手の人々の間には、「理屈」を尊重しようとする姿勢こそが重要=ただしそれが無内容な「ヘ理屈」であってはいけない、という但し書きで=ないしはキーワードだと私は考えており、その正当性は昨今の社会の病理現象をみるにつけ、ますます実証されているという確信すら拭えないものがあります。
そこで、私は最低限、公共の場では自らあえてソクラテス的に発言する・・・・つまり、自分の主観的見解を極力おし殺して、相手との「理詰めの対話」を最優先し、徹底して追求するという営みをあえて実践しているわけです。
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm

以上、長くなりましたがこのへんで

――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

私は宗教者ではなく、世俗主義者でもなく、科学主義者でもなく、哲学の学者でもなく、いつも『恋知者』として語っています。

恋知の基本は、己の主観性のありようを深く知り、それを吟味することを通して共通の水脈を見出す努力。論理的に不成立の「客観」という概念を持ち出すと、最も大切な普遍性のある共通了解を生み出す可能性がなくなってしまう。

そう考え・言った方が、差異の尊重に依拠した「活私開公」の公共世界をつくるにはよいのではないでしょうか? 啓蒙や独白や演説ではなく、対話的思考を育成するためには、自他の主観を深めて自由で豊かなものにする努力が必要。

私の主観は「客観」に近い!?というような妄想=客観的真理を信じる主観が最も危険です。どのような考えも「主観」であることを明晰に自覚することが、ディアレクティケー成立の第一条件。そう考えないと議論・対話は生産的にはなりません。

何よりも求められるのは、主観をしっかりと主観にしていく努力。主観を鍛えたら客観になるではなく、エロース豊かな主観になる、そう考えた方が「得」と「徳」が得られるのではないですか?

今本さんの言わんとすることは分かりますし、賛同しますが、あなたの思いを成就させるためには、スタンスを変える、メタバシスさせることが必要だと思います。

よい議論ができて感謝です。



コメント
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