体系的な理論・網目のような理屈、あるいは精緻な部分知=専門知に依拠するのではなく、
自分の頭で考え、行為すること。
自分で試し、確かめてみること。
近代の学問を学校で身につけた私たちは、「客観学」に縛られてしまうために、この一番重要な一番価値のある営みをないがしろにしているようです。
自分の五感=心身の全体で確かめる手法を身につけることができず、専門家や権威のドレイになっているようです。
自分で体感し・考え・実践するという基本が失われて、テキストというペーパーに頼り、情報に縛られ振り回されていては、「私」の生は消えてしまいます。
「序列」という神の下でビクビク生きる哀れな存在では悲しいですし、逆に上位者として威張って生きるのは醜くいやらしいことです。何より価値があるのは、私とあなた=ひとりの人間としての存在です。『靖国思想・天皇教、東大病・官僚主義』という序列宗教=精神病から解放されないと、「私」から出発するエロースの生は、けっして始まりません。
これより上はないという「至高」の価値は、私の心の内にしか存在しません。
他者への思いも、純粋に私の願いとしての「思い」でなければ、ほんとうの愛にはなりません。この逆説を深く自覚しなければ、私たちには「白々しいウソの世界」=形式愛=偽善しか与えられないのです。
「私」の主観性を深く大きく豊かにするための「民知」を実践するための「民知の会」を今年2006年から始めますが、花粉症の季節が終わった5月14日(日)には、全国的な規模での設立パーティーを我孫子で開こうと考えています。どなたでも参加は自由ですので、よろしければ今から予定に組み込んで下さい。詳しくはまた後でお知らせします。
武田康弘