思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

なぜ民知」の運動をするの?30年前の覚醒。

2006-01-20 | 私の信条

(以下は、私からUSAKOさんへの返信メールより、その一部です。)

自分自身の日々の経験と照らし合わせて、なるほど、と深く納得できるように知るのが、ほんらいの勉強でしょう。
私は、そのようにして知ったことの集合を「知」という名詞形で語っているわけです。
それは、今さら言うまでもなく当たり前のやりかたであり、その結果として知ったことやその方法をわざわざ「ほんらいの知」=「民知」だ、と言うこともないのかもしれません。
ところが、学校で、あるいは進学塾で、勉強がよく分からなくなってしまった子に、その子が納得できるように教えようとすると、数字や文字の世界と具体的な経験世界の結びつきが著しく弱いことに気づかされます。
記号化された世界がそれ自身「自立」してしまっているのです。
実は、このことは、どうやら文字や数字等の記号操作を得意とする人間にも共通する問題(私自身を含めて)であり、しかもより深く、当の本人が自覚出来ぬまでに身体化してしまっている、とある時子どもたちによって気付かされたのです。
だから、事象や物事の知り方やそこで得られた知そのものを問題にしなければいけない、と思った私は、自己改造をはじめたわけです。30年近くやってきてようやく少し自信がもてるようになったので(遅くてどうもすみません)、打って出ようか!というわけです。
したがって、そのような問題をはじめからクリアーしている人にとっては、意味のない運動ということになりますが、、、。

「知る」とは?=土門拳の言葉をヒントに
を見てください。(クリック)


武田康弘




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