思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

国?国側?についての有益なメール交換ー専門知と全体知

2006-03-13 | メール・往復書簡

以下は、3月9日のブログに対するメールですが、大変有益なものです。

武田様

Aです。(Aさんは、法案作成の専門家)

以下の条文の例でわかるように、訴訟当事者としては「国又は地方公共団体」なのです。ですから、訴訟に関する新聞報道等で、国側勝訴・敗訴という言い方をしているのは、正しいと思います。
ただし、これは法律の議論の場合の話です。
私は、特に官僚が何事につけても「国としては、国としての立場は、・・・・」と発言するのは、頭が法律論に毒されているからではないか、と考えています。
議論の仕方、言葉の使い方も、時と場合を考えてすべきですが、無意識のうちに、
天皇制→官僚制→東大法学部→法律偏重思考になっているのではないかと思います。

○行政事件訴訟法
(被告適格等)
第十一条 処分又は裁決をした行政庁(処分又は裁決があつた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁。以下同じ。)が国又は公共団体に所属する場合には、取消訴訟は、次の各号に掲げる訴えの区分に応じてそれぞれ当該各号に定める者を被告として提起しなければならない。
一 処分の取消しの訴え 当該処分をした行政庁の所属する国又は公共団体
二 裁決の取消しの訴え 当該裁決をした行政庁の所属する国又は公共団体
○国家賠償法
第一条 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

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武田です。

Aさんのご指摘、分かりました。ありがとうございます。

ここには、部分的な(法律論)知と、民知という全体知の違いが示されていて面白いと
思います。

私は、現在の法律の用語法がおかしいと思っています。
「国」という概念をあいまいにして使用するのは、無意識の意識として「国」イコール「官僚組織を基盤とした政府」という暗黙のイデオロギーに呪縛されているためでしょう。
明治政府の山県有朋が中心となってつくった日本的国家主義=国体思想を用語法にまで遡って清算するのはなかなかやっかいな仕事です。

これは、「国体」という想念を基盤として思考するところから自ずと出てくる用語法で、「政治体制 と 風土や言語 と 故郷」を混合させてしまう詐術です。それによって、各省庁や政府を批判することは「非国民」-「アカ」-「サヨク」(危険分子)というレッテル貼りが可能となり、個人の考え=主観は主観になる前に消去されるというわけです。

ともあれ、よいご指摘ありがとうございました。

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まとめです。

上記は、専門知(部分知)と 民知(全体知)の違いがわかる大変よい実例です。

全体知である民知という視点、言い方を変えれば、本質論ないしは意味論として捉えれば明らかにおかしい、
しかし、専門知という部分合理性の視点からは「正しい」、
という例の一つの見本がここに示されています。

結論を言えば、民知という全体知(本質論、意味論)に逆らった専門知(部分合理性)とは、無価値な「学」でしかありません。なぜなら、部分としての精緻な知=専門知(この場合は法学)とは、全体知に奉仕することにその存在理由があるからです。言うまでもなく、人間がよく生きるために役立つ知でなければ、知は意味を持ちませんね。これは「知」や「学」の原理なのですが、日本の近・現代史が、制度としての学知を民衆支配の道具にしてきたために、なかなか皆が自覚できずにいることです。 「民知・恋知と公共哲学」をぜひご覧下さい。

武田康弘



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