思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

目次ー恋知(哲学)-2

2006-03-14 | 目次(番号をクリック)

目次ー恋知(哲学)の2(恋知・哲学の1は、ここをクリックで出ます。)

67.洗脳と占脳ー恋知の営み
68. 「知」の原理の喪失ーおおもとからやり直そう
69.自分の欲望を見据え、受け入れること
70.なぜ「愛知」ではなく「恋知」なのか?
71.エロースは本質に先立つ
72.裸の人間として生きる ・ 実存としての自他への約束
73.民知の会へのお誘い
74.人間の性とは?
75.表層知に支配される愚かさー民知は響存としての実存を生む。
76.あなたは、人間を「理解できる」と思っていませんか?
77. 「哲学知」の獲得ではなく、「哲学する」ための原則について
78.仲良くする?仲良くなんかできません(笑)ー「対立」していいのです。
79.エロースの奥儀は、足るを知ること
80. 「よい・美しい」の基準変更
81.よい思想を味わうー老子
82.主観性の消去は、型はまりの不幸人しか生まない。
83.人間はどう生き、社会はどうあったらよいのか?のヒント
84.思想とは?―己の価値意識の明晰化が「はじめの一歩」です。
85. 「全体知=民知」と「部分知=専門知」の関係
86.公共哲学を皆のものに。一般名詞にして、それを動詞化していこう!
87.自分自身の問題になる、とは、よろこびの生をひらくことだ。
88.哲学とは何か?主観性の知をめぐってー山脇vs武田・討論会
89.ほんものの恋知(哲学)ークレンペラーの音楽をヒントに。
90.原理主義とは?原理の探求が弱いと原理主義に陥る。
91.生きた公共哲学・その1 公共的自由が健全な社会を生む
92. 「自己納得」の生と「自我主義」とは鋭く対立するもの
93.シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の三元論への疑義と解答
94.自分のことは自分でしなさい。
95. 〈恋知としての哲学〉はじめの一歩=絶対の一歩
96.中江兆民と植木枝盛ー自由民権の思想と21世紀の民知
97.「起源」と「本質」は違います。
98.ほんとうによい頭とは、【よろこび・たのしみ・おもしろみ】を生み出すもの
99.【実存・市民思想】は哲学の原理です。
100.思想(主観性の知)なき人間は、昆虫の属性を示す存在でしかありません
101.公共性の思想的基盤となる「ルール的人権」思想
102.他者地獄
103.自分を知るには?
104.哲学の難しさとは、自我の殻を破ることの難しさ
105.広く生活者として哲学することと、哲学の専門家になることの違い
106.理論への依存は、反・哲学でしかありません。
107.「腑に落ちる知」が開く「響存」としての世界
108.エゴイズムを越える条件は、自分を愛し、大事にすること。
109 金泰昌・武田康弘の恋知対話ー開始
110.「恋知対話」パート?の総集編ー金泰昌・武田康弘
111.金・武田の「恋知対話」2-1「自己という中心から公共性は生まれる」

114.【私の悦びや楽しさを広げるために】ー独我論は根源的不幸
115.金泰昌ー「徹底的に市民として哲学する立場を大事にする」
116.武田康弘ー「ほんらいの哲学・対話は、生活世界という共通項の中でするもの」
117.金・武田の「恋知対話」一応の最終回(合計23回)
118.「相手の心のよろこび」をイメージする「私のこころ」(実存論から見た他者の尊重)
119. 「日本人には道徳はない。ただ目上の者に従うだけである」(「日本を知れ」)
120.道徳の基盤は想像力、否、あらゆる人間文化の基盤は想像力です。
121.逆立ち・逆転した思考
122.</>a>感覚とイメージは言語に先立つ/心身全体による愛
130.自己批判なき自己肯定は、よきものをなにも生みません。
131.想い・実存と言語による一般化
132.「存在次元」と「具体・現実次元」の混同ー平面の生
133.「ふつう」に考えることが哲学。
134.わたしの生と仕事を支える哲学
135.他者性とは、悦びをもたらすもの
target="_blank">136.</a>イメージが広がるようなことばが恋知としての哲学には必要。
136.理念主義と哲学精神とは対極にあるもの
137.「公」と「公共」の問題
138.幻の「白樺特集号」 -「公共的良識人」紙07年2月号掲載予定の原稿公開!!
139.事実学は事実人しかつくらないー?


















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洗脳と占脳ー恋知の営み

2006-03-14 | 恋知(哲学)

数年前のことですが、授業中に当時高校生だった飯島君が、面白いことを言いました。
「先生、『洗脳』って、悪い意味で言われるけど、字の通りならいい意味だと思うよ。汚れた脳を洗うというのなら、いいことだと思う。特定の思想で脳を占領するという意味なら、占領する脳と書いて『占脳』だよね。」

これは、その通りですね、
誰でも、周囲の人やマスコミや妖しげなネット情報の「騒音」にさらされて生きていますから、知らないうちに「謬見」にはまってしまいがちです。その人の生きる場の「暗黙の想念」に絡み取られていることが多いので、おおもとに戻して考えてみるという作業には大きな意義がありますね。その作業は確かに曇った意識=脳を洗うわけですから、「洗脳」はとても大切なことだと言えます。

逆に、何気なく世の中の流れに乗って、「考える」という作業なしに生きていると、知らない間に「占脳」されて、つまらない目にあったりします。自分から出発する生のエロースが奪われて、紋切り型のつや消しの世界に陥ってしまいます。

「占脳」から解放されるためには「洗脳」が必要、というわけです。衣服や部屋や車のクリーニングと同じで、頭も「状況」によって汚されますから、新鮮さを保つには、白紙に戻して考えてみる作業が必要ですね。それが恋知(哲学)の営みです。

武田康弘


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