思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「知」の原理の喪失ーおおもとからやり直そう

2006-03-16 | 恋知(哲学)

心身全体の感覚と思考を融合させて物事をとらえる、という方法以外の方法は、認識論の原理上あり得ないことですが、現代の受験的な知=受験ゲームでは、しばしばその原理を踏まえず、問題と解答を直結させて「正解」を導く技術、いわばコンピューターゲームの裏技を覚え、身につける手法でことが進みます。

自分の五感と頭をフルに使い、手に取れるように、目に見えるように知るという「絶対的な原点」を喪失させているのが、現代日本の知ならざる知です。「知」の基盤そのものが失われている=物事の真偽を確かめる最後の拠り所がないーこの底なし沼のような恐ろしい事態を変えるためには、原理にまで戻ってやり直す以外に方法はありません。

東大を頂点に置く学校名信仰の「狂気宗教」は、名前・言葉・概念だけしか分からない「優秀」!?な人間を生み出し、「自分の五感の全体を使い自分の頭で考える健全な人間」を、かえって価値の低い存在と思い込ませるまでに、その異常性を深化させてしまいました。

人間の生を支える原理であり、また認識論の原理でもある知覚と情動を発達させるためには、豊かな日々の体験が不可欠です。体験=直観の世界を育てず、言語や記号操作を優先させれば、この原理を喪失した人間ならざる人間が出現してしまうのです。「体験=直観」と「言語・数字などの記号」が結び付かないと、生の土台となる「知」がつくれません。全てが宙に浮いて根無し草となり、価値と意味の世界を失います。人間は内的には死ぬのです。

人間としては「死んだ人」がつくる社会は、生のエロースを生み出せず、組織と規則にしたがってただ生存するだけの存在=単なる「事実人」しかつくりません。自分の生の実感や生の悦びをもてない干からびた人間は、人間の干物を生み出すことしかできず、輝く個人をかえって危険なものとして排除しさえします。ツヤ消しでなければいけない!というわけです。ここでは、規律と慣習に従うだけで自分の頭では何も考えない人間をつくることが「正しい」教育とされるのです。いよいよ人間の感性と思考までも幾つかのパターンに閉じ込める「管理社会」の完成―という事態にならぬようにするためには、原理にまで戻ってやり直すことが必要です。 

2006.3.16 武田康弘


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