思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

エロースは本質に先立つ

2006-03-28 | 恋知(哲学)

日々の生活経験を土台とする「直観=体験能力」を伸ばすことによる総合判断力の育成がないがしろにさえ、「専門知」や情報の追求が自己目的化されて、そこでつくられた知が生活世界の知(民知)の上に立つ、ということになれば、本末転倒です。
「専門知」や情報は、生活世界の知=判断(民知)に役立ち、生活を豊かにするこができる限りにおいて意味を持つにすぎません。

学問や芸術やさまざまな技術もみな、生活世界の問題を解決し、生活世界を豊饒化させることに意味があり、それ自体に自立した価値があるわけではありません。

討論―議論―対話をするのも同じことです。
それをすることで、問題の所在が明確になり、解決の可能性が広がったー面白いし愉しいー頭が刺激され、気分爽快だー疲れたけど深い充実感で満たされた、・・・・というエロースがもたらされなければ、意味がありません。命令や強制でやらされるという「対話」ではお話になりません。

生の充実、生の悦びが得られないならば、何事もけっして普遍的なよきものになることはありません。必ず廃れていきます。人が本音で「嫌」だなと感じることは、制度の強制力や暴力がなければ続きません。どのような理屈よりも先行するのは、エロースなのです。「実存は本質に先立つ」=「エロースは本質に先立つ」=「悦びは本質に先立つ」=「欲望は本質に先立つ」・・・・これは人間の生の原理です。

この原理を踏まえない思想・行為は、人間がよく生きることを阻害する根源悪であり、迷惑思想でしかないのです。

部分の知にしかすぎない専門知が偉いという暗黙のイデオロギー、学的世界が自立して生活世界の上に君臨する馬鹿げた事態、政府・文部官僚によるナショナリズムの宣揚―天皇・皇室崇拝の狂気じみた宗教・・・・こういう異常な思想が生じる根っこをおおもとから廃棄することが、輝く個人として自立した生を歩み、幸福に生きるための基本条件です。エロースは本質に先立つ、これは生の原理なのです

武田康弘


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