思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

皇室の存在が「公」をつくる?ーへのコメント返し(ブログ・ミクシィ内)

2006-03-31 | メール・往復書簡

タケセンさんへ。

Hです。

引用で申し訳ないのですが
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人間は一種の動物だから、きちんと教育をしないと、人間らしく育たない。犬猫とそう変わらない状態になってしまう。しつけが大切なのは、子供が大きくなって社会に出ていったときに、社会のルールや仕組みにちゃんと適応して生活ができ、社会に役に立つ人間になれるようにすることにある。つまりしつけとは、家庭で行う「公の教育」なのだ。
 個と公ということでは、公は「おおやけ」ともいい、「おおやけ」という言葉には、「朝廷」つまり皇室という意味があった。皇室は、日本における公共性の中心とされてきたわけだ。皇室の存在が見失われると、「おおやけ」つまり公が忘れられるのだ。
 教育勅語は、明治天皇の御言葉だが、決して天皇の個人的な創作ではない。わが国に長くずっと伝わってきた伝統を、言葉に表したものであって、日本人が古来ずっと持ち続けてきた伝統的な精神、この国の素晴らしさ、美しさを集約して表しているものだ。
 教育勅語は戦前、家庭教育における指針ともなっていた。「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し」とあるように、親を大切にし、兄弟姉妹が助け合い、夫婦が調和を持って、円満な家庭に努めて来た。ところが戦後、教育勅語が失われた。家庭における教育の基準、規範が無くなった。家庭での「公の教育」も、なされなくなってきたのだ。
 私たちはもう一度失われたものを学び直し、取り戻していくべきだ。今日からでも実行できる。自分の家庭また私たちの社会そしてこの国を立て直すことは可能だと思う。
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とても感銘を受けたのですが、どうでしょうか
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2006年03月31日
21:05

タケセンです。

私は、いま春休み中ですので、時間に余裕があります「嬉」。

公民=社会人になる努力は、何より大切。
ただそれを「『朝廷』つまり皇室」の存在に負わせるという思想は、現代社会においては、全く普遍性を持ちません。個人として「皇室」を敬愛・尊重するのは自由ですが、それを社会的ー国家的指導原理にはできません。特定のイデオロギーや宗教を全国民に強要することになり、現代民主制の原則を覆すことになるからです。
ここで確認しなければならないポイントは、「個人の思想・心情」という次元と「社会制度上の約束事や共通倫理」との次元の相違をしっかりとわきまえることです。
公民=市民とは何かについては、私は以下のように考える以外にはない(思想信条を異にする多くのふつうの人々の共通了解を得るために)と考えています。

 市民=公民=シチズンとは?

 市民とは、自分が一人の個人であると同時に公民=社会人であることを自覚した人のことです。
ここで注意しなくてはいけないのは、「公民=社会人」と、「国民」とは違う概念だということです。パブリック=公(おおやけ)の、ということと、国籍や民族とは何の関係もありません。
市民=公民=社会人とは、自分は社会の中での受動的な一人の人間だ、というのではなく、自分はこの社会をつくっている一人の人間だ、という自覚をもっている人のことです。
繰り返します。市民とは、「国民」ではなく「公民」のことです。
公(おおやけ)とは、自分が生きている「場」のことは自分たちで考え、決定していくという「自由と責任」によってつくられるものです。
その地域で、その国で生活している様々に異なる人々(ピープルであって、「国民」ではありません)がよりよく生きていくためにはどのように考え、行為したらよいか?を考えることが、公(おおやけ)であり、パブリシティーとは、市民的な共同意識―市民的な共同体のことです。(官―役所が「公」なのではありません。官とは「市民」生活を下支えするサービス機関です。)

それ以上の各人の心の思いは、それとして大切にしなければなりませんが、社会人としての共通倫理にそれ以上を求めてはならないのです。これは人類の「殺し合いや他者抑圧の歴史」を改善する思想の原理です。

武田康弘






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