思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「民主制社会」から「日本主義社会」への転落

2007-02-28 | 社会思想

東京都(石原都知事)は、「君が代」伴奏を拒否した教師を処分しましたが、その処分を最高裁は27日「合憲」としました。「校長の職務命令は、憲法19条の思想・良心の自由を侵害するとは言えない」というものですが、この最高裁の判決で判然としたのは、日本という国には、思想的自由がないということです。(注・歴史的事実として、「君が代」は、「現人神」とされていた明治天皇賛歌としてつくられた曲です)

民主制国家とは、市民の自由を守るために存在するのですが、いまの日本政府は、「近代天皇制」を国是として市民に強制してその自由を抑圧する「国体」思想に汚染されています。人権と民主主義を守るというほんらいの「政府」の使命からは、大きく逸脱していると言わざるをえません。少数意見を行政権力・国家権力でつぶすというのは、民主主義国家の【自殺行為】でしかないのです。

今回の判決を下した5人の裁判官のうち、ただひとりの公共的良識人である藤田宙靖さんは、「反対する人に斉唱や伴奏を強要することは、直接的抑圧となることは明白」と述べていますが、この当然の判断ができる人間が少数派では、日本社会に未来は開けません。

また、文部科学大臣の「大和民族がずっと日本を支配してきた」「人権を尊重しすぎたらメタボリック症候群になる」というのは、愚か者ここに極まる!という発言ですが、このような頭脳―思想の持ち主ばかりを集めたのが今の安倍政権です。右翼的な国家主義の改憲団体「日本会議」のメンバーばかりです。

同じ日に東京高裁は、「母親が外国籍の場合、父親が日本人、認知しても(その時期が赤ちゃんの誕生後ならば)、日本国籍を認めない」という判決を出しました。裁判所がここまで国家主義に染め上げられ、市民・個人の側に立たないならば、司法権は死んだも同然です。行政権力の形式主義から弱い立場の個人を守るという司法の役目を放棄した裁判官たちのテイタラクには、激しい公憤を覚えます。

民主制社会とは、個人の開かれたパワーに依拠するものですから、ひとりひとりの思想、信条、良心を育て、徹底して守る必要があります。そのためのサポーター役が官・政府なのです。
閉じた「国家主義」という精神は、人々から自由と悦びを奪い、社会を硬直化させ、必ず国を滅ぼしていきます。これは歴史が証明するところです。

武田康弘





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