国を愛する態度を養う!?(新教育基本法)
この極めて愚かな思想、ほんとうのことは何ひとつ分からない愚か者集団がつくった理念を、田村隆一さんの詩「愛ってなあに?」は、これ以上はない平易な言葉によって無化するものです。以下に全文を載せます。
愛ってなあに?
青年のときは、
愛
という言葉がぼくは苦手だった
とくに詩のなかで
愛
という言葉がどうしても使えなかった
人類や国家や世界を
愛するなんて
ぼくにはできない なぜなら
愛の対象となりうるものは
抽象的なものではないからさ
人 血のリズムによって存在するもの
物 小さな物 その存在によって
人の心に平安とやすらぎをあたえてくれるもの
それだけが愛という言葉に答えてくれるのだ
その愛によって人は
人類と国家と世界を新鮮な眼ではじめて
見ることができる
あるお嬢さんがぼくにたずねた
「愛ってなあに?」
「続続・田村隆一詩集」現代詩文庫111(思潮社・刊)より
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知を愛する、ということについてミクシィ内からコメントがありましたので、
以下に載せます。
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2007年02月05日
23:27
ヨッシー
タケセンさん
上手く言えないですが、具体物しか愛せないとなると、知を愛する、という表現をどのように把握するとよいでしょうか?
田村さんの詩の意味からは、少し説明しにくいと感じました。勿論、愛国心とかを批判する趣旨は理解できますし、力強いメッセージだと感じますが、・・・。
この力強さは、「民知」に通じると思うのですが、如何でしょう?
ヨッシー
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2007年02月06日
00:39
タケセン
ヨッシーさん
よいご質問、感謝です。
法学や政治学やの個別専門知を愛するとはいいませんが、
恋知としての哲学の世界で「知を愛する」というのは、それがナマの具体的な生に直接応答するからです。人間の生きる意味や価値という抽象的に思える課題を、生々しい生の具体の場で言葉にする作業だからこそ「恋愛する」ことが可能なのです。
この点に他の学や知との根源的な違いを見たところから恋知=哲学は始まった(「パイドロス」の最後の部分をご参照ください)わけです。
民知とは、哲学の初心=恋知としての哲学のことですから、言葉=概念を生活世界の具体に届くように(手に取れ、目に見えるように)使うことで始めて成立するもの。言葉は生の具体的経験の中から、後から出てくるわけです。力強さがあるのは当然!です(笑)。
現行の大学内哲学や哲学書オタクは、その意味では恋知(哲学)とは無縁です。単に抽象的な概念遊びにすぎませんからね。
武田康弘