思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

〈恋知としての哲学〉はじめの一歩=絶対の一歩

2007-02-14 | 恋知(哲学)

人が現実に生きる中で、どのように考え・どのように行為したら、自他の生を深く肯定でき、人生の悦びを広げることができるか?人生と社会の困った問題を解決する可能性を開くことができるか?を考えるのが私のいうほんらいの哲学=恋知です。そのためにまず必要なのが、自分自身の存在がどのようなものか?を静かに見つめる作業です。それが人間と社会の問題を考えるための絶対の前提=基盤です。

そういう意味で哲学はどうしても必要なのですが、
しかし、いま、哲学や思想といわれるものは、みな、過去の哲学書(者)の紹介であり、あるいはそれらの研究です。自分の日々のさまざまな具体的な経験から自分の頭で考えること=自問自答や、考えたことを他者と交換する対話による思考の広がり・深まりとは無縁な営みになっています。哲学的対話というと、哲学書(者)の言葉=概念を用いて話すことになり、いまの自分たちの置かれた状況=生活世界からふつうの言葉によって自分の頭で考え、心身に届くものにする、というようにはなっていません。

哲学書は、特殊な哲学クラブというサークルの中でだけ通用するものとなり、生きた英知とは無縁です。もちろんそういう「哲学サークル」という趣味の世界があっても一向に構いませんが、それは将棋や碁やコンピューターゲームと一緒で、ひとつの趣味に過ぎず、人間みなにとって必要な知・世界ではありません。

私のいう哲学とは、哲学の初心=恋知としての哲学=民知のことです。自他の生の実感にまで届く思考によって、人生を多彩で重層的でよろこびの多いものにする営みです。誰とでも話を深めつつ広げることが可能な頭を育てることです。そのために必要なのは、第一に静かに自分の心の声を聴く練習です。意識の水面下を見る練習、沈思です。言葉ではなく、言葉以前の世界を掬(すく)い取るように感じ知る力、直観=体験能力の育成です。これは誰にでもできます。つまらない偉がりや外的評価に怯える強迫神経症から自由になり、正直に自分の赤裸々な心を見ればいいのですから。それが、恋知としての哲学のはじめの一歩、絶対の一歩です。

武田康弘




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