思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

中江兆民と植木枝盛ー自由民権の思想と21世紀の民知

2007-02-20 | 恋知(哲学)

中江兆民は、
〈義(普遍的な原理)という公と利益を求める私とは別々のことに思えるが、義を追い求めて自分の利益に拘(こだわ)らなければ自ずと私のためにもなる〉という一元論の思想を持ち、個人の行為が義(普遍的な原理)に合致すれば、自ずと個別性を超えて大きな広がりをもつとしました。
彼は、驚くほどの「複眼的」な思想をもった人で、福沢諭吉の欧化(ヨーロッパ化)の路線に対して、欧米の思想と共に漢学(中国の古典)を学ぶ教育の必要性を訴えました。もし兆民が、福沢+文部省に敗北していなければ、その後の日本の歴史は全く違っていたと思います。中国や朝鮮へのひどい蔑視は、福沢イズムによってもたらされたのですから。

(私は兆民の敗北の原因は、?原理の突き詰め・徹底と、?現実の人間の赤裸々な姿の認識・肯定と、?問題を現実的に解決していく柔軟な論理、の3つを立体化して用いることが出来なかったところにあると見ます)。

ただし、兆民が求め、基準としたものは、ルソー(西欧)でも、老子・孟子・孔子(中国)でもなく、概念を実体化させてしまう日本的な考え方でもありませんでした。新たな理念=人民に立脚した義(普遍的原理)であったのです。彼は政治における人民を手段ではなく目的そのものとしました。「人民は本(もと)なり、政府は末なり、人民は源なり、政府は流れなり、人民は表(しるし)なり、政府は影なり。・・・官は末なり、民は本なり、官は流れなり、民は源なり、官は手足なり、民は脳髄なり。」(「国会論」1888年)

私(武田)はこの兆民の思想を発展させ、【主観性の知に立脚した生きた対話の哲学】を提唱しています。それが哲学の初心=恋知としての哲学=民知です。各人の生々しい経験に立脚した思索を広げ、その成果を共有するためには、書物や権威に頼らない生きた自由対話が必要です。生活世界の只中で自分の心身の声を聴き、自分の脳を使って、ふつうの言葉で考えることの実践がほんらいの哲学です。【天皇教・靖国思想、官僚主義・東大病】という権威主義・客観神話から解放されない限り、まだ何事も始まらないのです。ほんとうによいものとは、〈主観を掘り、刷新し、豊かにする〉ところからしか生まれません。これは原理でしょう。


以下に、中江兆民研究の第一人者・松永昌三さんの『自由・平等をめざして 中江兆民と植木枝盛 』(清水書院・新書)の冒頭部分を書き写します(ワード作業は大学生の染谷裕太君にしてもらいました)。

自由民権運動

 自由民権運動は、立憲制の樹立と民主主義の実現をめざし、国民的規模で展開された政治運動であった。政治(権力)からつねに手痛い打撃を受けてきた日本の民衆は、幕末維新の動乱を生きぬき、三〇〇年の幕藩体制がもろくも崩壊することを体験することで、自己のエネルギーを発見した。民衆は、おりから導入された欧米の近代民主主義思想を武器として、みずからが望む国家を構築するため、主体的に政治に参加し、彼らが居住する地域から全国に貫通する組織を結成し、強く連帯し、自由を抑圧しようとする専制政治とたたかった。このたたかいは、明治一〇年代を中心に、明治の前半期をおおった。

 この運動には、国民各層がさまざまな仕方で参加した。学問的素養のあった士族は欧米の近代思想を摂取し、著作・新聞・雑誌・演説等を通して民衆に伝えた。また結社を組織して運動の推進役となった。それまで学問や知識はほとんど支配階級の利益のために存在した。民権運動は、学問を民衆に役立つものとしてとらえなおした。官に依拠するのではない在野の知識人が、この時期大量に出現した。

 農村在住の豪農たちは、村落の指導者としての自覚を発揮し、刻苦して民権思想を身につけた。彼らは同志とグループを結成し、資金を出しあい、各地域からの情報を吸収し、村落と国家の将来に着目した。彼らは政社を結び農民を組織し運動を指導する人々となった。知識人や村落の指導者たちに媒介され、生活体験を通し民権思想を主体的に受けとめた農民大衆は、労働に汗を流しつつ運動のにない手に成長した。

 自由民権運動は、こうした国民各層をつつみこんで、明治政府の専制と対決したのである。直接的には、国会開設(国民の政治参加)、憲法制定(国民の自由・権利の保障と政治権力の制限)を要求した。
 明治政府は、この民権運動に対し、きわめてきびしい弾圧でのぞんだ。運動内部にも弱さや欠陥があった。知識人の大半は官に吸収されていき、社会の未成熟は民間の知識人の生活基盤を支えることができなかった。豪農たちは彼らの存在をおびやかす中小貧農の動向を警戒し、政府のほうへにじり寄っていった。明治一〇年代後半の松方財政の過程で、没落する一部の士族と農民は、いっきょに専制政府を打倒しようとし、各地で蜂起するが、いずれも官憲や軍隊の圧倒的な力でつぶされてしまう。

 明治立憲制(天皇制)は、この自由民権運動を鎮圧しつつ形成されていった。明治憲法は、民主主義理念とはほど遠い君権主義の産物で、日本の民衆は臣民(天皇の家来)の境遇におとされた。国会は開設されたが、参政権はごく一部の者にしか認められず、民衆の大部分は、実質的に近代国家の構成員=国民として認められなかった。しかしきわめて不満足なものとはいえ、明治立憲制は、十数年にわたる自由民権運動なくしては生まれえぬものであった。かつての民権派の指導者たちは、国会(衆議院)に進出し、明治立憲制の正統なにない手たることを主張して藩閥政権と争った。やがて彼らと藩閥政権とのあいだに妥協が成立していくのである。

中江兆民

 中江兆民・植木枝盛は、この自由民権運動を代表する思想家である。どちらも土佐藩の武士の子として生まれ、卓抜した民主主義者に成長し、民権運動の渦中にあって、民権思想の質を高め、その普及に全力投球した。
兆民は武士でも最下級の足軽の子であった。父と早く死別したが、生来の学問好きが認められ、長崎留学の機会をつかんだのが一転機となった。向学心は強く、さらに江戸に出てフランス学を修め、幕末維新の動乱期も、ほとんど学問一途であったようだ。さらに大久保利通の目にとまりフランス留学の大望を果たした。フランス留学時代に、ジャン=ジャック=ルソーの著作に親しみ、おそらく自由主義思想家エミール=アコラスに学んだことであろう。帰国後は仏学塾を開きフランス学を教授するかたわら、漢学者の門をたたき、また禅宗の導師に教えを乞うたこともあった。兆民は、長崎留学以来、つねに当代第一級の学者についた。こうして兆民は、すぐれた内外の学者から積極的に学び、自己の学問を確立していく。兆民の思想に時代を先取りする進歩性がある一方、伝統のなかから良質のものを発見しこれを継承発展させようとする志向がみられるのは、おそらく兆民の学問の仕方に関係があろう。それに兆民は、儒学的教養を身につけてからフランス学を始めている。
兆民にとってフランス留学は大きな意義をもった。アメリカ、イギリス、フランスという近代資本主義文明の母国を実地に見聞し、とくにフランスのパリやリヨンの市民の生活実感に直接ふれた。またエジプト・インド・セイロンなどの植民地の実情についても一瞥する機会を得た。この留学体験は兆民の思想の強固な核を形成した。
兆民は十九歳で長崎に留学して以後、郷里高知に一時帰ることはあったが、生活の本拠は高知以外にあった。幕末から高知を離れ遊学生活をおくったことが、兆民をして土佐藩人士の系列から比較的自由にさせた一因である。立志社や自由党にも正式にはいった証拠はない。推測をたくましくすれば、最下層の足軽の子として武士階級の序列構造のみにくさを感じていたため、士族中心の立志社やその流れをくむ自由党にはいらなかったのであろうか。いずれにせよ、兆民は、集団に親しむことをあまりせず、自立した精神、醒めた認識をもちえた個性的人間であった。
兆民の主要な関心は、現実の矛盾を解明し、明日のための理論を構築することにあった。みずから学んだ学問を後進に伝え、彼らの成長に期待を寄せた。兆民は、近代民主主義思想の真髄を体得していた。理想のためには妥協せず、原則を貫徹し、あいまいさを排した。権力への迎合を何よりも嫌った。また兆民は、東洋の文化的伝統と日本の民衆を深く愛した。しかしその獲得した思想の質の高さと在野性の保持が、兆民の存在を孤高的なものにした。そこに明治の留学派民権知識人の悲劇があった。

植木枝盛 

植木枝盛は中等藩士の出身であり、少年期には、当時としては標準的な武士の子弟としての教育を受けている。明治維新後の比較的開明的気運のなかで少青年期をおくるのであるが、郷里高知で学習していたこともあって、武士的教養と士族意議は濃厚であった。二度目の東京遊学後、福沢諭吉や明六社の啓蒙思想を積極的に学び、文明の精神を理解するのであるが、板垣退助の庇護を受け、板垣と行動を共にすることが多かった。二年間の東京生活が枝盛に与えたものは大きく、また二か月間の入獄は、自由と専制の問題を鋭く意識させた。
 枝盛の生活は、前後二回あわせて三年間弱の東京生活を除けば、ほとんど郷里高知での生活に限られている(民権期以降は各地で活躍する)。それに板垣に早くから近づいたこともあって、枝盛は立志社にはいり、その社員として、おおよそ、立志社の運動と自己の活動とが一体化している。しかしきわめて意欲的な独学、旺盛な知識吸収力により、枝盛は欧米近代思想の本質を理解していく。兆民訳のルソー民約論稿本を筆写したのは、西南戦争の最中で、ちょうど立志社内部が動揺しているときだ。
 枝盛は、立志社という組織のなかで、土佐の先輩後輩の人的環境のなかで、自己を民権論客にきたえていった。さらに民権運動の渦中に飛びこみ、演説・遊説・著作・オルグとめまぐるしいまでの政治活動を続け、その実践を通して大衆を理解し、自己の思想を高めていった。枝盛は、自己を育てた立志社―土佐民権派の系列から大きく離れることはなかった。枝盛は民権運動のなかから生まれ育った理論家であり、その枝盛の思想がさらに運動を発展させていった。枝盛はいわば土着の民権家、生粋の民権家といえよう。」

(☆植木枝盛についての記述は、ほとんど家永三郎さんの研究による、と松永昌三さんは述べています。なお、枝盛についてはこの下のブログを見て下さい。)

武田康弘





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