思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「起源」と「本質」は違います。

2007-02-22 | 恋知(哲学)

私は、昔からずっと学問を職業としている人と対話・討論をしてきましたが、しばしば学者は、本質(○○とは何か?ということ)と起源(ものごと・ことばの始まり)を混同し、起源を知ることが本質を探ることの代わりになっています。

どうしても活字や活字的論理を中心に生きていると、日々の生活世界の経験が貧弱=パターン化してしまうために、概念的思考(言語中心主義)に囚われ、ナマの現実を体験=直観として捉える能力が劣ってしまうようです。これは、ひとり「学者」の問題ではなく、われわれ現代人に共通する欠陥だと思えますが、とりわけ思想や哲学は、現実の人間の生には意味のない概念遊戯に陥りがちです。

その結果、物事の本質をナマの具体的経験から探るということが不得手となり、知識によってこれを解決しようと横に逃げることになるために、本質の探究が起源の探究へとずらされ、上滑りしてしまうのです。

たとえば、哲学の中心問題である自己と他者の問題でも、これを起源の問題にしてしまうと、「幼児の発達心理学」という視点から、自我の意識は他我の認識に照らされてはじめて成立するという「事実」をもとに、自我を先立てることが間違いだ、という結論になります。そこから、自我と他我と世界は同時に考えられるべきだ、という言説が「哲学」の世界では当然のように出てきます。

しかし、「哲学」に犯されていない多くのふつうの人にとっては、これはまったくリアリティーのない「お話」でしかありません。誰であれ、幼児期に自我意識が形成された後では、自分という中心を持ち、そこから事象や物事を見ます。いわゆる「自己中心性」から離れることはありませんし、離れることは不可能です。自分のことを考えるのが先なのです。それが「本質」です。他者や世界の中に自己も同時に存在するという事実は、自己の優先という「本質」を覆すことはできません。

他者や世界の問題は、どのようにして、どういう順番で「私」にとって切実な問題になるのか?それを考え・言わなければ、ほんらいの哲学(恋知としての哲学)にはならないのです。結論を言えば、自我が他我と共によく生きることができる条件は、自我意識を薄めたりごまかしたりするのではなく、自我を真正面からよく見ることです。欲望存在としての己のありようを正直に見据える営みがなければ、他我や世界認識も、ことば=理論に留まり、生活世界には届きません。それでは、自我も他我も世界も永遠に宙に浮いたままになってしまいます。言語上の整理や、理論的な整合性を優先させると、人間の生の赤裸々な現実を言語の中に閉じ込めてしまう愚を犯すことになるのです。

私がどう生きるか?人間の生とはどういうものか?は、あらかじめ決まってはいませんし、決めることもできません。現代人は、「実存の冒険としての生」を引き受けざるを得ないのですが、ここに自由と不安が生じます。「起源が○○だから、本質も○○だ」、という想念は、根源的な不安感情への打ち消しとして生じるのでしょう。規定しようのない人間の生のありようを、言語=理論の世界に固定することで「安心」を得ようとするのですが、こういう作業をやめることが、本質的思考・原理思考をもたらす条件だ、と私は見ています。

武田康弘




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