思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の三元論への疑義と解答

2007-02-07 | 恋知(哲学)

現在まで刊行されている20巻のシリーズ「公共哲学」(東京大学出版会)の表紙にはすべて、4つの基本編集方針が掲げられています。

そのうちの2番目には『従来の「公」と「私」という二元論ではなく、「公」と「私」を媒介する理論としての公共性を考える。』と記載されています。
「公共哲学」の関係者は誰でもが知っている有名な「公・公共・私」の三元論ですが、この理論に対しては、白樺同人から強い疑義が出されていて、12月23日の『白樺討論会―金泰昌氏(「公共哲学」の中心者)を迎えて』においても話題になりましたが、明瞭に整理されるには至りませんでした。

私は、この問題は、以下にように考えればよいと考えます。

 ? 従来は、実際上、「官」(地方政府においては市役所、政府においては各省庁)が公(おおやけ)ないし公共であるかのように振る舞い、そう目されてきたわけで、その限りでは、「公」(ないし公共)と私との二元論が成立します。

 ? こうした現状に対して、私の集合である市民という立場にたって「市民的な共通の利益」を考え、これが本当の公ないし公共なのだから、官の立場で言われる公(公共)に対して、私という立場=単なる私益を超えて、市民が自らつくる公(公共)という概念を対置すると考えれば、三元論になるわけです。ただし、この場合三つが並列しているのではなく、民から開く公(公共)こそが本来的なものという思想が含意され、上位にあるとされるわけです。

 ? ?のように現状を変革する理論としての三元論に対して、市民主権=民主制社会の原理論として考えれば、次のようになります。
「官」とは、もともと市民が生活を営むのに必要な公共性=市民的な共通利益のために働くシステムであり、市民(国民)のサービス機関です。役人は市民(国民)サービスマンであり、それ以上でも以下でもありません。
「私」の利益に対して、市民としての共通利益=公共を考える主体者は、あくまで一人一人の私であり、それが自由で対等な対話によって公共をつくりあげるわけです。
そう考えると、これは一元論(現実には不可能ですが)のようになります。公共とは市民的な共通利益のことであり、それを下支えする組織として「官」がある。市民=民が「官」をつくり養うわけですから。

したがって、まず何よりも大事なことは、?の市民社会の原理をいつも明晰に意識しておくことであり、その上で、現状の問題を解決するための柔軟な思考と態度を持つことです。

公共哲学に関心を持つ方、および関係者のみなさん、いかがでしょうか?

☆なお、金泰昌氏は、「公・公共・私」を、三元論というよりは、「三次元相関性」と捉え、「公私二元論」という平面理論では、市民から生まれる公共性が出てこないと考えています。公共性は、ダイナミックな運動=三次元的思考によって生み出されるものとしているわけです。その真意が一般の大学人にはよく理解されていないために、現在おかしな混乱が生じていると私は見ます。大至急、認識を改める必要があるでしょう。


武田康弘



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