思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

武田による「民主制の始源かつ本質」の定義 

2014-05-07 | 学芸

 

4月25日に出したBlogですが、最後に重要な文章を加えましたので、再度出します。

 

以下は、武田による「民主制の始源かつ本質」の定義です。昨日と一週間前の二回、わたしの地元・我孫子市の中央学院大学で講義しました。

古代ギリシャ(紀元前400年代)に起こったペリクレスによる民主制(市民による統治)も、ソクラテスの恋知=哲学(知への恋)も、共に、恋愛が象徴する「私」から始まります。
 

神への愛(アガペー)という宗教的な絶対感情や、

愛国主義=国家的集団主義の感情とは次元を異にする

恋愛(エロース)が象徴する「私」からはじまる公共性=相互性こそ が、人間性を肯定する民主制の政治(自覚したふつうの人々による統治) をつくる。

 

(※ 参考 厳しい必然の神・アナンケを打ち破ったのが恋愛の神・エロースです。したがって、エロース神とは、人間的自由の象徴でもあるのです。)

 

わたしたち日本人は、以上のような意味で「私」や「民主制における公共性」を捉えられないために、「私」の精神的自立を持てず、【形式と序列の支配】の中に埋没してしまうわけです。
集団的・仲間的「私」(あるいは宗教的「私」)しかないのでは、人間的魅力のない悦びに乏しい人生しか与えられません。「人間を幸福にしない日本というシステム」は、恋愛に象徴される「私」の脆弱さに由来しているのです。みなさん、「私」になりましょう!!

また、キリスト教という強い一神教により基礎づけられた人権と民主制をもつ欧米も、日本などとは逆の意味で歪んでいます。歴史的には近代民主制は欧米で現実化したわけですが、みなの納得を生む普遍的な了解を得る以上に、宗教的絶対の観念に縛られるために、民主制が豊かさや寛容性に向かわずに、主知主義的となり自己絶対化に陥りがちです。欧米人はその点を反省して、キリスト教のアガペーという愛よりも始原的なエロースの愛が開示する「私」に率直になることが求められます。「イデオロギー化された自我」ではなく、恋愛に象徴される「私」から公共性を考えなくてはいけません。

武田康弘

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