(2010年5月鎌倉)
自衛官だった泥憲和さんとfacebookで友人になりましたが、彼が親鸞や蓮如のこと、真宗大谷派(東本願寺派)のことなどを書いていたので、「コメント対話」しました。意気投合!!
わたしは、もう10年近く前に鎌ヶ谷市公民館で「歎異抄を読む」の講座を持ちましたが(同時に白樺教育館の「恋知の会」でも)、その時のレジュメの一部(凝縮した文章)がありますので、以下に載せます。
親鸞は、仏教のみならずさまざまな宗教に見られる地獄の思想を、「南無阿弥陀仏」の六文字によって意味のないものにしてしまいました。根源的な宗教革命をなしとげのです。
阿弥陀仏は、すべての人・「煩悩」に苛まれて日々を生きるほかない人間を例外なく救うという大願をかけてくださったがゆえに、往生は間違いない。権力も財力もないわれわれ凡夫・悪人には、とりわけ死後の救いー極楽浄土は約束されているのです。そうなれば、私たち煩悩につかれた人間は、煩悩につかれたまま、この世で自身の納得のいくような生を営むこと、心から望むことに従い生きる道を進むことが可能になります。
権力者・権威者・管理者に従ってビクビクする必要はありません。従うのは、親でも教師でも上司でもありません。自分の内から自ずと湧き上がる心の声(これが他力)のみです。ここではじめて各自の人生は各自のものになります。「根源的な民主主義」=実存思想の成立です。誰であれ人を支配することも支配されることもない、皆「ご同胞ご同行」ということになります。
秩序は、外的な道徳律から内的な納得へと180度回転します。内から湧き上がるエネルギッシュな人生への転換です。驚くべきことに、他力に徹する念仏門は、自力正道門をはるかに超えた個人のパワーを引き出すことに成功しました。自己のうちに眠る巨大な潜在的な力を解放するのが、親鸞の絶対他力の思想なのだと言えるでしょう。
世界の思想のうちで、これほどの徹底性と大衆性を併せ持った思想は例がありません(晩年のハイデガーは、キリスト教ではなく、親鸞思想に救いを求めました)。800年前にこのような見事な思想を生み出した日本はすばらしい国です。誇るべき日本の伝統とは、こういうものなのです。ウソで固めた「万系一世」などという神話ではありません。(2005.4.30)
親鸞とは、表層の思想(イデオロギー)ではなく、最も深い地点(欲望と生死そのものの価値)から「天皇制国家」の詐術を打ち破った、日本史上最大の人物です。「南無阿弥陀仏」=善人でさえ往生できるのだから、まして悪人の往生は間違いない=全ての人間を救う願をかけた「阿弥陀仏」への帰依、ただそれだけに凝縮した絶対他力の「救い」の思想は、やがて多くの民衆の心を捉えていきます。念仏を唱えるだけで誰でも直ちに救われる、という権力者にとっては極めて「不都合な」この思想は、死罪・流刑の大弾圧を被ることとなります(親鸞の師である浄土宗の開祖・法然と親鸞ら弟子たちが受けた法難)。親鸞は法然の思想を更に深め、都(京都)に住む「善人」でさえ救われるのだから・・・・としたのです。
僧籍を剥奪された親鸞は、わざわざ、朝廷に、「愚禿(ぐとく)親鸞」(愚かなハゲの親鸞)という名前の使用を許可するよ うに申し出ました。なんという不敵な、いや、そういう言葉も不似合いなほどの徹底した行為でしょうか。
「親鸞は天皇のためには礼拝せず」(主著「教行信証」)、と言い切ったこの優れて民衆的な、同時に「エリート」という名の俗物性から超越したほんものの人間は、多くの日本人に深い感動をもたらします。やがてその思想は野火のように広がり、その 後の蓮如の働きにより「浄土真宗」は、日本最大の宗派になったのです。
信長による大量殺戮、徳川幕府による懐柔支配、明治の凶暴な近代天皇制の下に苦しみ、妥協を強いられてきた「浄土真宗」 は、今こそ始祖―親鸞の 初心に帰ることで、真の普遍宗教の役目を果たすべきでしょう。 「天皇制」の亡霊を復活させようとする勢力が台頭しつつある今、親鸞思想の意義は計り知れないおおきさをもつと思います。真宗教団の奮起を祈念します。(2005.9.11)
武田康弘