思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

北海道ー職員室に「アベ政治を許さない」(読売)ーーまったく正しい行為です、皆がやるべきこと。

2015-12-12 | 社会批評

読売新聞 / 2015年12月12日 19時36分

 安倍政権を批判する文言が書かれたクリアファイルが北海道立高校で見つかったことを受け、道教育委員会が公立校の実態を調べた結果が9日、道議会文教委員会で報告された。

 「ファイルが置かれているのを見た」とする回答が15校20件確認されたものの、「職員が配布したのを見た」という回答はなかったとして、道教委は「ただちに法令に違反するものではない」として、教職員を処分しない方針を示した。

  今年9月の道議会予算特別委員会で、議員が「アベ政治を許さない」と書かれたファイルが職員室の机の上に置かれていたと指摘、「教員の政治的中立が保たれるのか」と質問していた。ファイルは道高等学校教職員組合が作製した。

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政府自民党の御用新聞のような「読売新聞」は、これを批判したいような楽天ニュースの見出しでしたが、教職員組合による安倍政治批判はあまりに当然のこと。それさえ批判するなら、共産圏と同じですよ。

違憲政府(ほとんどの憲法学者の共通見解)を批判しないのは、偏向であり、批判するのが公共的良識です。

こんな初歩的なことも分からないのなら、マスコミ失格ですので、新聞社の資格がありませんね。読売の新聞記者さん、大丈夫ですか?


  7月15日国会前で。撮影・武田

武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員)

コメント (8)
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「自由」は人間の生の原事実。或る「一つ」を絶対と固定するのは、とてもよくないこと。

2015-12-12 | 恋知(哲学)




わたしは、毎日、いつも、世界を感じます。

感じ知ります。知るには留まるところがありません。同じ人と、同じ場所にいても、世界はいつも変化し、万華鏡のようです。

その都度、新たなに感じ、新たに想い、新たに考えます。
そこには、固定や絶対はありません。動かないものなど何一つなく、世界はいつも新鮮です。わたしは、いつも新しい自己と世界を楽しみ、よろこびます。

こどもと同じ。

こどもは、お化けを怖がったり、わけのわからぬことを信じたりしますが、また、すぐ、信じなくもなります。いつも変わります。絶対正しい!を言いつつ、絶対はなくて、どんどん動きます。
だから、こどもは自発的には信仰などしません。宗教を信じません。自分の頭で考えます。ある特定の考えを絶対とするのは、気持ち悪いことです。〇〇教の信者、神の御心???変なの~~~~。

私が生きていることで感じる「エロース」(魅力を感じ惹きつけられるもの)を味わうのです。それらは、私のもの、私が感じ知るものです。誰かに、何かに「従う」ことでは決して得られない「私」という宇宙のよろこびです。

何かを崇めれば、私は私でなくなり、あなたと自由で楽しい関係はもてなくなります。私は私、私以上ではなく私以下でもない。私が私以上の何か(=外なる価値、最大のものは神という概念)に合わせたり、従ったりしようとすると、それは深い嘘になります。嘘は嘘を共有する人としか交わりあえず、本質的に不毛です。

絶対とか唯一とかを主張する宗教がなくならない限り、深い嘘から抜け出せず、いつも虚構の世界同士の争いです。いつ果てるともない争いが続きます。敵と味方に分かれてしまいます。自分の内に排他的ではない「信仰」があるのはよいのですが、それによる精神共同体=宗教団体をつくれば、個人の自由=実存は消えます。

わたしは、唯物論者ではありません。

人間とは価値意識の束ですので、観念存在です。特定の観念を持つ存在ですが、そこに宗教が入りこむ原因があります。人間が観念存在であることは原事実であり、その意味で死への特定のイメージや考えをもつのは当然ですが、生きることを宗教の教え=思想から導くとしたら、それは、生の意味をいまと未来へのイメージからではなく、過去・既存から決めることになり、生き生きとした輝きや悦びから遠ざかります。人間のネオテニー的な特性は奪われます。未来への想いから現在を生きる、という人間存在の意味が逆転してしまうのです。

私の生き方、意味、価値は私の心身全体の感覚と思考の冒険により決まるのであり、何か特定の思想や宗教が先立つのでは本質的に嘘になります。私は、なにかに所属する存在ではなく、私という存在ですーこれは人間の存在論的事実です。経験的現実の底にあるのが人間存在の赤裸々なありようですが、それはこどもを見ればよく分かります。

宗教的な絶対感情は、人間の意識から自由・しなやかさ・柔らかさを奪い、固定された感情を導きます。宗教の熱心な信者は、その表情(身体性)に固着性(不自然な安定)があるので、すぐ分かります。

死者への遇し方や死への応接は必要不可欠ですので、宗教はいつまでも続きますし、それは当然ですが、そういう意味での宗教ではなく、今を生きる私の生を規定する宗教は、よくないのです。人間存在のありようや生の意味や価値の問題は、フィロソフィとして考えることであり、固定した考えを受け入れることではありません。

私は、私の内なる普遍(よさ)を追求して、エロース豊かに生きるのです。それは、なんでもよい、なんでもあり、という相対主義ではまったくありませんが、絶対主義=原理主義ともまったく無縁です。

人間は自由から離れたら必ず腐ります。なぜなら意識とは自由を本質とするからです。自由は宿命です。
ちょうど1600年前(紀元415年)にキリスト教徒たちにより惨殺された女性教師ヒュパティア(フィロソファー・数学者・天文学者)の言葉は、みなが心に留めるべきものと思います。

 「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」

    「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、
    
そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は   信じ込まされたもののために戦うのです。」 (英文からの翻訳は武田)


武田康弘

 

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3日で「いいね!」が1万件!!(驚)感謝です。「ランリュック」(「ランリック」)訪問者は4万5千人超。

2015-12-12 | 教育

「ランリュック」(「ランリック」)を広めたいのblogへの「いいね!」が、3日で一万件になりました。とても嬉しい驚きです。

いかに多くの方が重くて固くて(値段も高い)ランドセルに疑問をもっているかの証です。

みなさま感謝です。引き続き拡散で、変えましょう~~~こどもの心身を軽やかに!!








 

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