思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

フィロソフィとは、知的営み(主観性の知)であり、学問(客観学)ではない。「学」はその下で可能となる。

2015-12-14 | 恋知(哲学)

内田卓志さんによる「武田哲学へのインタビュー」が続いていますが、
以下は、学者・大学教師もおおきく誤解している「学問」の位置づけの問題ですので、それだけを抜き出して示します。

まず、はじめに、とても大切な知の核心について書きます。

内田さんは、思想や哲学について、【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けをしましたが、大事なことなので、確認します。

 ソクラテスは、話しことばによる問答的思考で、本を書かず文字を残しませんでしたので、彼の知的営みは、文献学的・学問的とは言えません。
 またインドの釈迦の解脱、自帰依ー法帰 依の思想も文献学とは無縁で学問的ではありませんでしたし、イエスの既存の世界の常識を覆して新たな世界を拓いた言辞行為も、少しも学問的ではありません。

 近代の西洋哲学の始まりはデカルトですが、彼の有名な『方法序説』は、書物を捨てて体験に基づいて考えることを宣言した本で、まったく文献学的ではなく自説を述べた本ですので、少しも学問的ではありません。
 また、『社会契約論』を書き近代民主政の原理を提示したルソーは、恋愛小説家として知られ、家庭教師もして生計を立てていた人で、社会思想の研究者ではありませんでした。『社会契約論』は、新しい社会原理のアイデアを打ち出した書で、文献学的ではなく、これもまた学問的著作ではありません。

 それらはみな「文献学的・学問的」でないのですが、彼らの本を研究する今の学者の営みは、文献学的・学問的です。そうすると、人間の生き方を考察し、新たな人間観や社会観を示した人や書物は、非学問的で、彼らの本や人となりを研究するのが学問的だと言うことになります。

 思想や哲学においては、「文献学的・学問的」というのは、過去の人や書物の研究ですが、それが思想や哲学という営みの中心・本体なのでしょうか?思想や哲学の中心・本体は、過去・既存ではなく、未来に向かう精神から生まれる知的営みではないでしょうか。飛翔するイマジネーションによる思考こそが思想や哲学の中心・本体ではないでしょうか。

 わたしが思うに、思想や哲学の中心となる営みは、学問的というのでなくて、ストレートに【知的】なのです。

 ここで、ひとつ大事な知識を披露しますが、知的という「知」とは、「知恵」という意味に限定されません。知識と知恵を分けてしまうのは、分類好き(分類趣味)のアリストテレスによるもので、ソクラテスとその弟子のプラトンには、知識と知恵を分ける考えはありませんでした。知的とは、よくみなが言う「知識」と「知恵」の双方を合わせた概念なのです。わたしの言う「知」とは、そういう意味の「知」です。

 思想や哲学の営みは、【知的】なのであり、学問的なのではありません。過去に囚われた文献学ではないのです。過去は手段とてあり、中心・本体は、未来への豊かなイメージに支えられた今なのです。

 以上は、核心中の核心(原理中の原理)なので、その点に絞り、まずはお返事し、他は後ほど。


武田康弘

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