思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

優れた言動をもたらす条件。経緯や背景の明瞭な意識化の営みがフィロソフィと倫理を可能にする。

2015-12-16 | 恋知(哲学)


或る事実にはどのような意味があるのか?

誰れでもそれが知りたいのです。

それを知ることは、大きな価値があると思うからです。

わたしが、「白樺文学館」を文字通りゼロからつくり上げた時の基本理念『白樺フィロソフィと民知の理念』(今は、文学館は我孫子市に寄贈されて、この理念は、「白樺教育館」の活動を支えるものとなっています)において、単なる事実の開示ではなく、事実がもつ意味の探求=意味論としての知こそが新しい知・ほんらいの知である、と宣言しました。

わたしは、お話する場合でも書く場合でも、文脈・経緯・過程・背景をできるだけクリアーにしようと努力しますが、それは、、結論や結果以上にプロセスを重視し、バックを明らかにすることで、意味を浮き上がらせる=ある出来事や事実の意味を立体的に明らかにするためです。

そのような普段の姿勢=態度=方法を日々実践することが、まさにフィロソフィ(意味論としての知)を成立させるための条件であり、それがなければ、ほんとうに自他の心と頭を透明にし、前進させる言葉を紡ぐことはできないと思います。

あいさつの延長のような内容の薄い言葉や、アリバイづくりのような言葉や、言いわけのような言葉や、建前でしかないような言葉や、理屈にすぎないような言葉ではなく、
人の心にとどく言葉=考えを紡ぐための基本条件は、そこに至るプロセスやバックを明瞭に提示する努力です。

それを実現するには、公平さや公正さという精神がなければならず、自分を中心にしてはいけません(自我主義はダメ)。【自分の言動を大きな背景の中に位置付ける】という普段の営み=努力が求められます。

自分がそのように考えるようになったのはなぜか?何が、誰が、それに寄与したのか?

また、ある物(機器であれ書物であれ)との出会い、ある人との出会いには、どのような背景(バック)があったのか?どのような経緯があったのか?
それを意識し、明瞭に示す努力がないと、人間の信用は生まれず、よき人間関係が広がらず、すべては嘘の世界になります。例え一つひとつの「事実」に嘘がなくとも【背景】を明らかにしないと、全体が嘘の世界に陥るのです。

フィロソフィの営みにとって一番大事な条件は、格好をつけたりよい理屈をいうこととは逆に、自己存在をよく知り見るという実践ですが、そのためには、自分の言動を自分を超えた大きな背景の中に位置付けようとする意識的な営みが必須です。

私の判断や思想や行為をもたらしているもの、可能にしているものの文脈、経緯、背景、プロセス、バックグラウンドを明瞭に意識し、それを示そうとする営みを習慣づけないと、意味論としての知=フィロソフィは「はじめの一歩」を踏み出せません。たとえ、世界の名著を読破し、種々の知識を積み上げても、それだけでは、人が「よく」(善美に憧れ広げつつ)生きるには、何の価値もないのです。

経緯や背景を意識・自覚・想起する営みは、今という現在を厚みのある豊かな世界にし、優れた倫理(民主的倫理)をもたらします。忘恩とは無縁になりますし、無礼や失礼とも無縁になりますし、感謝の心が自然と湧き出ます。自分が生きているとは、皆に生かされていることである、と分かります。
また、新たな未来をひらくためにも、どうしても欠かせない営みです。バックグラウンドが明瞭に意識されてはじめて未来への優れた想念も誕生するからです。

私の自我拡張の主張ではなく、私の内部から湧き上がる善美に基づく考えとその主張は、こうしたな豊かな想念と倫理に支えられたとき、はじめてほんものになる、これは原理だと思います。


武田康弘

 

 

 

 

 

 

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