わたしは、昔からずっと思ってきました。
社会改革を唱える人たち(昔は社共連合とか言いました)の多くは、
人間的な魅力に乏しく、面白さ・楽しさが少なくて、いつも「正しい」理屈ばかり言うので、つまらないな~~、とね。
ソクラテスの言葉で言えば、エロース(魅力・色気=惹きつける事象やその作用)に乏しいのです。
生身の人間の本音やありのままの感情や思いを認めずに、押さえつけようとするので息が詰まります。それは、靖国思想(天皇教)をもつ今の安倍政権の人間たちも同じですが、彼らは、明らかに「イカレている」のが分かります。みな『日本会議』のメンバーで、天皇が神の系譜だとか、神話が事実だとかと言いますので、オウム教などと同じカルト宗教ですが、それを国家権力を用いて行うので「国家カルト」です。これをよいと思うのは、ひどく歪んだ人生を歩んだ人に限定され、まさに「不幸の意識」でしかありませんが、
左翼とか改革派といわれる側もまた、ひどい権威主義(象徴的に「東大病ないし東大教」)で、理論のために人間が生きているかのような逆立ちした想念の持ち主が多く、辟易します。
左右ともに、正しい型がある、正しい理論がある、正しい生き方がある、とまさに人間存在を物の存在と同じベクトルで考え、本質を存在に先立てます。ここにいる生身の人間の関心や欲望から出発して、何をどうしたらよいかを考えるのではなく、あらかじめ決められたパターンや理屈に人間を閉じ込めようとします。
心身ともに、なにかしら問題があると思うと、〇△病という名前を付けないと不安に陥る!そんな人は、その典型です。
なにごとも「縁」のものなので、ビクビクしたり、あせったり、苛立ったりせずに、
心身にせよ状況にせよ、それを受容して、そこから、さてと、どうしたら開けるか、面白くなるか、エロース豊かになるための発想と行為を工夫すればよいのです。
そして、やがて自然に「死」がやってきます。
あるべきとか、理想とかを考え、語る人ほどうっとうしく嫌な人はいないな、わたしはいつもそう思います。いまを愛する心がないと、根本的な変革=エロース革命などできるはずがないのです。
権威や理屈に従う人生を元から断たないと、「はじめの一歩」が始まりません。
楽しく、生き生きと、堂々と、胸をはり、しなやかに生きたいですね。いつも遠く(空=雲)を見ると、気分が前向きになり、たくさんアイデアが湧きますよ~~~(タダで教えてしまった・笑)。自帰依ー法帰依です。
武田康弘