わたしたち日本人はとりわけ誤解していますが、
現実の損得や利害という次元も、憧れ想うという恋する次元に支えられなければ、ほんらい成立しないのです。
海が生まれ、大地が生まれ、大気が生まれても、それだけではまだ何もないに等しく、
それらが意味を持つには、何かに惹きつけられるという作用が生じないといけません。
それがエロースという恋ごころを起こす神です。
さまざまな現実はそれ自体としては何の意味も持たず、そこに意味と価値を生じさせるのは、惹きつける=魅了するという作用です。それは「恋心」と呼ばれますが、
何かをめがけたい、という恋心が生じることで、はじめて現実といわれるわれわれを取り巻く世界は意味をもち、色づきます。灰色の世界から彩色の世界に変貌します。
だから、ロマンや理念の世界が豊かに広がることがないと、人間にとっての現実は成立しないのです。
多くの人は、とりわけ日本人は、この人間の生の原理を知りません。実に困ったことです。それではいつまでも不幸です。
「白樺教育館」の教室、黒板の上に「エロースと弓矢」の絵を掲げました。
大学の哲学科に行っても、このフィロソフィの根本意味を教えません。恋心にとらわれることなくしては、ほんらいの学も知も成立しないことを教えないのです。
ただの「事実学」の羅列、その取得ー暗記に耐える苦行が知や学だとしています。
意味論=本質論こそがほんらいの知であることさえ教えない教育とはただ人を抑圧する化け物でしかありません。
規則主義・管理主義で厳禁の精神=「必然の神アナンケ」を打ち負かしたのが、「恋心の神エロース」であり、支配するという発想をもたないエロース神が世界を支配してはじめて、外的秩序の強制(古代王政)から、一人ひとりの自由と悦びの内的秩序による国(民主政)が生まれたのです。エロースは、『個人』の中にしか生じませんし、また、個人はエロースと共に生きることで、何よりも豊かな生の可能性がひらけます。
武田康弘