思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ノット・東響 欧州演奏会のプレコンサート。ベートーヴェンV協 シュスタコーヴィチ10番を聴いて。

2016-10-16 | 芸術

昨日は、すばらしい演奏会で幸せでした。
ノット・東響のヨーロッパ演奏旅行のプレコンサートAプログラムです。

日曜日にはBプログラムを聴きましたので、まるでツァーに同行したような気分(笑)
9日は新宿の東京オペラシティで、昨日はサントリーホールで。席は二階の指揮者の横で同じような距離感でした。

オペラシティも音響はよいのですが、やはりサントリーホールの音の美しさは格別で、品がよく艶やかで、ベートーヴェンV協奏曲の出だしから、うっとりでした。

イザベル・ファウストは、現代を代表する女性ヴァイオリニストの一人ですが、情意ではなく知が立つ人で、技術もきめ細かく、細身の音も美しく、第一楽章はまだ音に雑味がありましたが、後になるほど艶やかになり、気合も十分で、大熱演。
カデンツアは耳慣れない!? 演奏後に、ベートーヴェン自身がピアノ用につくったものと知りましたが、まるで現代作曲家の作品のようで、改めてベートーヴェンの凄さ・新しさを知りました。

しかし、実は、わたしは、出しからソリストとオーケストラが合わないと感じ、演奏中になぜかな?考えましたが、すぐに答えがでました。ファウストは、知の人で、情意は知にコントロールされていますので、情動が弱く、聴いているわたしの全身が反応=感動しないのです。音楽が知のゲームになっていますが、対するノット・東響は、豊かで強い情意の音楽で、ストレートにベートーヴェンを感じさせます。幾度も全身に鳥肌が立ちましたが、それは、すべてオーケストラの演奏に対してでした。ノットは、とても頭のよい人ですが、彼の知は、情意の表出の手段として黒子で、知が先立つことはありません。

結論を言えば、ソリストが、昨年モーツァルトのV協で過去の名演を色褪せさせたアリーナ・イブラギモヴァであれば、ピタリとハマり、新次元の演奏が生まれたはずです。ファウストは20世紀型であり、客観主義の世界から抜けられない秀才ですが、イブラギモヴァは天才で21世紀を拓く主観性の豊穣をもちます。ノットのオーソドックスに見えて実は新しさ満杯の音楽には、ファウストは残念ながら古いのです。

 

休憩の後は、大曲、ショスタコーヴィチの10番で、わたしの大好きな曲です。
細かく書いたらキリがないので、全体的に。

この複雑で恐ろしい迫力に満ちた曲は、一対一でベルリンフィルなどの技術と比べれば東響は不利ですが、そういう次元とは異なる名演奏でした。音も日本のオケとは思えぬほどの充実で、美しいだけではなく、吹きあがるような力や、地鳴りのような迫力を持ちましたが、何よりもノットの解釈が、いままでにない見事な演奏をもたらしたのです。

欧米の普遍的というより「普遍主義」の解釈では、この曲も近代音楽の延長の一つになりますが、そうではなく、まるで歌舞伎役者かオペラの登場人物のように、各楽器が次々に変わる場面を交代で演じ みなが主役でした。実に面白く、それでいて全体は見事なまでに有機的に統一され、最後はものすごい迫力、切れ味抜群のエンディングで、全身に震えがきました。欧米を超えた欧米の音楽で、真に普遍的。こざかしい頭の処理を超えて、身体が自然に反応する楽しさです。

それをショスタコーヴィチのオーケストレーシュンの妙と言えば簡単ですが、その言い方だけではすまない奥があり、複雑な心理があります。それを頭がよくかつどこか悪ガキ的で魅力的な人間性をもつノットが、日本のオケを使い、新境地をつくりだしたのです。

海外のオケに行かなくとも
『感動は、すぐそこにある』(東響の2017-2018の演奏会案内パンフの表紙にあることば)は、ほんとうです。

なお、シュスタコーヴィチの交響曲の多くは東響が日本初演をしていますが、この10番も1953年の作曲の翌年、東響が初演しています。

 

 話がズレますが、ノットが清瀬保二の『日本祭礼舞曲』や『レクイエム』(無名兵士)を演奏してくれたら、天才清瀬の価値が日本と世界に知れるのにな~~と思います。ライブをCDで発売すれば、わたしがたくさん売りますので(笑・ホントウ)。



 わたしの「ブラボー!」に応えて、笑顔で手を振るノットさん。

 武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする