思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

プラトンのイデア論、「学問的」ということ「自分で考える」ということ。内田卓志→武田康弘

2015-12-08 | 恋知(哲学)

         (武田63歳)                            (内田49歳)


武田先生

インタヴューの続きです。

 最近は、プラトンを30年ぶりに再読しています。ちょっとですが。納富信留教授の『プラトン―理想国の現在』も読んでみました。さすが納富教授、素晴らしいプラトン論のひとつと拝読しました。
 そこで、質問します。プラトンが、『ポリテイア』で主張している「イデア」についてです。この著は、日本では「国家」と訳されていますが、かつては「理想国」と訳されていたようです。

 プラトンは、武田先生に最も影響を与えた人ですね。

 そのプラトンの国家編でプラトンは、イデアについて主張します。イデアは、ある絶対的な超越性を言っていると思います。先生は、超越性原理を批判されますが、その文脈の中での「イデア」について教えてください。 その意味とその役割について。イデアを絶対的な超越と考えると武田哲学とは、相いれないことになるとおもうのですが、如何でしょうか。

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内田さん、

 そう、「理想国」なのです。プラト ンは、「ポリティア」の最後に、今まで書いてきたことは紙の上の話である、と明言しています。まさに、紙の上の「理想」であり、思考実験 です。

 また、「イデア」を絶対的超越と読むのは、キリスト教を常識とした16世紀に始まる近代の西ヨーロッパ人による読み方です。日本の学者も ずべてそれにならっていますので、同じです。
 
 イデア論は、唯名論として見れば、現代では言語論の常識であり、すんなり理解できるとするのが、わたしの考えで、そのような読みにより武田思想は成立しています。

 プラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」とは読めません。「絶対的真理」とは異なる「普遍性の探求」として捉えない と、古代ギリシャのフィロソフィとキリスト教ーー大きく異なる思想を同一のものとする愚を犯してしまいます。

 そうなれば、近代の西ヨーロッパのキリスト教化された哲学の見方で、ギリシャのフィロソフィを知ることになるわけです。

 なお、わたしとソクラテスの行為(プラトンの著作)との関係についてですが、
ソクラテスを知った後で、わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学 する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。プラトンの著作を読んで、今のわたしの思想があるのではなく、いまに役立つように使用してきたのです。

 プラトンの後期はピタゴラスの神秘思想の影響で難しいものとなっていますが、それについての解釈は別の人に譲ります。わたしの興味の埒外 ですので。

 武田

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武田先生

『わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。』

 先生の発言は、私には誠に羨ましいかぎりです。私には、このような体験が無いので最初は信じられなかったのです。まず本を読んで勉強した後に気づいたり、考えたりして、世界の見かたが変わる。つまり視線が変わることはあります。その上で考えてみて、実行したりします。私は、この繰り返しです。

 私が、先生のような思考の訓練をしてこなかったせいなのか。理由は、分かりません。その意味で羨ましいのです。「哲学する営みが先にあり」との発言を信じるしかないのです。理由を少し述べます。

 私は、10年以上白樺教育館の仕事を見ていますが、さて学問の研究家に「このような仕事ができるかな」といつも思うのです。教育論のところで詳細を語って頂きましたので、ここでは省略します。

 ただ、一人で、40年こつこつと自らの思想に基づく教育活動により、生活を建てていることが凄い。このことは、特に強調しておきたい事実と思います。

 私も優れた研究者の方々に接する機会がありました。研究者は文献を正確に読み緻密に解釈して、自らの考えを表現します。「初めに文献ありき」、ということでしょう。文献学的な知のあり方や使い方では、白樺教育館の維持は困難だとわかったのです。どちらが、優れているとかいっているのではなく、白樺の活動を行おうとすれば、そのような文献学的知の使い方は、むいていない、効力が少ないということです。「自分で自分の経験を基に考える」営みから導かれた、フィロソフィーに基づき子供に対峙し交わる。私は、その活動の成果を見ていますので、信じると申し上げるのです。つまり、学問の世界と具体的な経験の生活世界とでは、知のあり方、知の使い方が、異なるということでしょうか。
 
 武田先生の主張するフィロソフィーは、学問ではないので、非学問的な知恵に支えられているのですね。 (内田卓志)

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続けて、
次にプラトンのイデア論のこと。

 先生のお立場は、「絶対的超越」と読むべきではない、イデア論は、唯名論として見れば理解できるとのことですね。そのような文脈の上に、武田先生の思想は成立していると理解しました。

 プラトンのイデア論は、いまだに議論のあるところで学問的にどう理解すればよいのかは、分かりません。後期プラトン哲学は、先生もご存じの通りイデア論を否定しているとも解釈されます。この問題は、学者におまかせしましょう。

 ただ、私もプラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」と理解すべきではないと思います。自らの不知を最も自覚したソクラテスが、絶対的な真理を追い求めるのは、言語矛盾のようにも感じます。それよりソクラテスは、普遍性の地平を探求していたという先生のご解釈のほうが私には、「ピン」ときます。先生は、プラトンいうイデアは、あくまでも「理想」(追い求めても離れていく存在、どこまでも到達できない場所)を語っているので、それを絶対的超越とか超越性原理と考えることはできない、というご主張だと分かりました。

 フェイスブック上でも、先生へのインタビューから対話が始まっているようですね。私も楽しみです。

 ※イデア=理想とは厳密には理解すべきでないとか、研究者の間では議論があります。納富教授もそのような見解ですが、結論は結構武田先生のプラトン理解ににも近いと感じます。その他プラトンのことで語りたいことは、つきません。戦前の南原繁の『国家と宗教』でのプラトン理解は、学者の良識の頂点のような勇気ある著作でした。

 内田卓志

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内田さんへの「わたしの解答」は、明日の「恋知の会」でお話します。それをここに載せます。

武田康弘。

 

【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けについて。

内田さんの実存レベルの話が入ったの で、とても分明で、優れたインタビューになりました。ありがとう!

 

まず、はじめに、とても大切な知の核心について書きます。

内田さんは、思想や哲学について、【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けをしましたが、大事なことなので、確認します。

 ソクラテスは、話しことばによる問答的思考で、本を書かず文字を残しませんでしたので、彼の知的営みは、文献学的・学問的とは言えません。
 またインドの釈迦の解脱、自帰依ー法帰 依の思想も文献学とは無縁で学問的ではありませんでしたし、イエスの既存の世界の常識を覆して新たな世界を拓いた言辞行為も、少しも学問的ではありません。

 近代の西洋哲学の始まりはデカルトですが、彼の有名な『方法序説』は、書物を捨てて体験に基づいて考えることを宣言した本で、まったく文献学的ではなく自説を述べた本ですので、少しも学問的ではありません。
 また、『社会契約論』を書き近代民主政の原理を提示したルソーは、恋愛小説家として知られ、家庭教師もして生計を立てていた人で、社会思想の研究者ではありませんでした。『社会契約論』は、新しい社会原理のアイデアを打ち出した書で、文献学的ではなく、これもまた学問的著作ではありません。

 それらはみな「文献学的・学問的」でないのですが、彼らの本を研究する今の学者の営みは、文献学的・学問的です。そうすると、人間の生き方を考察し、新たな人間観や社会観を示した人や書物は、非学問的で、彼らの本や人となりを研究するのが学問的だと言うことになります。

 思想や哲学においては、「文献学的・学問的」というのは、過去の人や書物の研究ですが、それが思想や哲学という営みの中心・本体なのでしょうか?思想や哲学の中心・本体は、過去・既存ではなく、未来に向かう精神から生まれる知的営みではないでしょうか。飛翔するイマジネーションによる思考こそが思想や哲学の中心・本体ではないでしょうか。

 わたしが思うに、思想や哲学の中心となる営みは、学問的というのでなくて、ストレートに【知的】なのです。

 ここで、ひとつ大事な知識を披露しますが、知的という「知」とは、「知恵」という意味に限定されません。知識と知恵を分けてしまうのは、分類好き(分類趣味)のアリストテレスによるもので、ソクラテスとその弟子のプラトンには、知識と知恵を分ける考えはありませんでした。知的とは、よくみなが言う「知識」と「知恵」の双方を合わせた概念なのです。わたしの言う「知」とは、そういう意味の「知」です。

 思想や哲学の営みは、【知的】なのであり、学問的なのではありません。過去に囚われた文献学ではないのです。過去は手段とてあり、中心・本体は、未来への豊かなイメージに支えられた今なのです。

 以上は、核心中の核心なので、その点に絞り、まずはお返事し、他は後ほど。


武田康弘

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きょうは、シベリウスの150回目の誕生日です。いま、最後の大曲「交響詩タピオラ」を聴いて感動。

2015-12-08 | 趣味

きょうは、シベリウスの生誕150年。誕生日です。

シベリウスの独自の世界は、フィンランドの自然から霊感を得たといわれますが、実感します。

今年3月には、芸術劇場(池袋)でフィンランドの作曲家で指揮者のサロネン指揮・フィルハーモニー(英)の声を失うほど美しい演奏を聴きましたが、いま、CDでヤルヴィ指揮 エーテポリ交響楽団で「タピオラ」を聴き、深い感動でいっぱい。ドイツ音楽とは和声(色模様)もリズム(心身の律動)も異なり、実演でブラームスとベートヴェンの前後に二曲聴いたとき、わあ、世界が違う!と思いました。

大型装置でフルボリューム=音の洪水です。真空管アンプの低歪化回路(NF)を外して聴くと、まるで生演奏のような音です。とても満足。余計なことをせず「生のまま」がよいですね~~。暮れには、みなさまにお聞かせする会を設けます。




武田


 

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9日の水曜日は、今年最後の「恋知の会」

2015-12-07 | 学芸


ソクラテス
(大英博物館で染谷裕太君撮影)

 

9日の水曜日は、今年最後の「恋知の会」
ご参加ください。
午後1時開場、1時30分開始。

テーマは、あり過ぎで終わらない!?(笑)...
時代を変える、未来を開く、新たな知の冒険を共に!!!

会員以外の飛び入り参加は、授業参加費2000円です。

 

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これ以上はない最高の子育てとは? 

2015-12-07 | 教育

これ以上はない最高の子育てとは?



生まれた子は、愛情たっぷり、もうこれ以上ないほど可愛がられて、ベタベタで、

1歳半くらいからの幼少期にはやりたいことやれて、毎日、イキイキ、ランランで、親は死にそうでクタクタで~~~~

こういうふうに育つと、どうなるか?

よく弁えて、話をよく聞き、自分の秩序(内的秩序)を持った小学生になります。

そうでない子は、いつまでも手がかかり、いつまでも問題を起こし、いつまでも怒られる子になります。

秩序は外から、「力」で押しつけられた秩序しか持てない人になります。

精神的自立ができず、権威(「神」?)にしがみついて生きる人になります。

いつも「他者に優越している」と思いたい症候群、不安神経症者や強迫神経症者になります。

社会的地位の高低に関係なく、死ぬまで幸福がやってこない人になります。

 

人間は、愛情たっぷり、ベタベタべったり~~~がないと精神が育ちません。基本がなければ、後はすべて不幸。

外からの規範で生きる人には、自分の人生はないのです。

 

武田康弘

 

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ピアノなどの習い事をしている子と親と先生へ。弾くことを先立てたらダメですよ!

2015-12-06 | 教育

昔から気になり、いつも思い、言っているのですが、少しも改善されないので、また。

ピアノを習っている子は、弾くことを先立てていますが、それでは音楽になりません。弾く機械ではなく、音楽をする子になるには、聞くこと・聴くことが一番大事です。

バレエを習っている子も同じ。踊る練習より前に、見ること、視ること、観ることが大事です。

心身にそれをする意味イメージが広がることがなければ、優秀な機械にしかなれません。

人間が弾き、人間が踊るです。

心に豊かな想念がないと、心によろこびがないと、すべて無意味になります。

勉学とて同じですが。

よく聞き、よく見、よく味わうこと、何度でも何百回でも繰り返し味わうことではじめて「わたしの世界」が生まれます。

出来ることよりも前に、どうしても必要なのは、感じ知ることで、これは、人間として生きるための原理、原理中の原理なのです。

さすがに斎藤秀雄さん(小沢や安永や岩崎やらの師)は、実によく見えていた人だな、と思います。

 

武田康弘

 

 

 

 

 

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現代における宗教の位置、役割り。ミニマムであること。ちょうど1600年前に惨殺されたヒュパテイアの言葉

2015-12-01 | 恋知(哲学)

 個人としての生き方からはじまり、公共問題、世界認識、宇宙観のすべてを教示するような一神教は、いくらんでも21世紀を生き延びることができないでしょう。そういう発想は、近代以降の人間の認識の広がりと深さに見合わないもので、すでにあまりに時代錯誤というほかありません。

  現代における宗教のもつ意味と役割は、通過儀礼=結婚式とか葬式、また法要などにおける「儀式」を司るものであり、あるいは、 日常生活における「習慣」、あるいは仲間としての「集まり」くらいでしょう。そういうものとしての宗教であれば、争いなど起きません。

  どこかに人格をもった神が存在し・・・という類のお話は、通常の理性をもつ人にはとても信じることは出来ず、荒唐無稽というほかないです。

 
ハリーポッターの物語が好きな人にとっては、ハリーやハーマイオニーは、「自身の中に存在」しますし、幼い子にとってサンタクロースは「実在」します(そのように親が教えるので)が、それと同じ意味であれば神も「実在」しますが、言うまでもな く、それ以上ではありません。

  もう、昔ながらの一神教は「思想疲労・制度疲労」で、現代ではその命を終えています。宗教のあまりに古典的な考え方は、すでに通用しないはずです。欧米でも額面通りのキリスト教をそのまま信じる人はかなり少数でしょう。

  いまから1600年前(紀元415年)に 女性教師のヒュパティア(新プラトン派のフィロソファー・数学者・天文学者)は、キリスト教を信じないと明言したために、キリスト教徒たちに捕まり惨殺されましたが、彼女の言葉=思想は、極めて示唆に富むものです。

 
      映画「アレクサンドリア」から

    「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」

    「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、
    
そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は   信じ込まされたもののために戦うのです。」 (英文からの翻訳は武田)

 

 宗教には先に書いたような意味と役割がありますから無くなることはないですが、ミニマムがよいのです。控え目であることが求められます。

  人間の生き方、生の意味や価値についての探求は、主観性の学としてのフィロソフィが取り組むものですし、宇宙論は自然科学に任せるべきものですし、人類史は、実証性をもつ考古学や歴史学として取り組むべきものです。宗教が決する問題ではありません。



  武田康弘

 

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クリスチャンの方への問いかけ。信仰は自己内に留めるべきではないでしょうか。

2015-12-01 | 恋知(哲学)

昨日のblogの続きの話です。
fbのコメント欄に書いたものです。



染谷博美さんの
「一つの『絶対』をおいてしまうことで、それを信仰していない人を排除する思想がうまれる危険性は無視出きるような軽いものではないと感じます。」は、
極めて重たいもので、根源的な問いだと思います。

超越神をもつ人の他者への態度は、表面がどんなにソフトで紳士(淑女)でも、本質的に非信仰者への抑圧となります。信仰者は、その信仰によって他者と関係するのはとてもよくないことです。

信仰は、自分の内に留めるべきではないでしょうか。他者関係や公共的な場面で信仰による「人生や社会や歴史への見方・判断」を主張すれば、必ず他者関係を破壊するはずです。超越神への信仰を持たない人は、超越神の信仰をもつ人の物言いに、返答しようがないからです。
本気で返答すれば、否定か、同化か、二つに一つになりますから、通常の人間関係は不可能になります。

信仰者は、信仰という場面以外の「日常的・世俗的世界」に超越神信仰からくる信念を持ちだせば、その人間関係は必ず「救われる者、救われない者」という見方が出て、本質的に上から目線にならざるえを得ないと思います。

信仰者の禁欲が大切です。
クリスチャンの門脇さんの歴史解釈を読んで、わたしは、これではイスラム教徒(あるいは非クリスチャン)とは、永遠にぶつかり続けると思いました。宗教による世界史解釈を公共世界に持ち出せば、自己絶対化しか生じないと思います。それは不幸しか生まないのです(人類が全員同一宗教にならない限りは)。



武田康弘

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