以下の記事、昨日と同じで、FBコメントを加えたものですが、表題を変えました。
安倍首相の自民党憲法案からは、すべて「個人」という言葉が消され、ただの「人」に変えられていますが、これは、常軌を逸した異常な思想と言えます。
主権の存する日本国民の総意に基づく---時代に合わせ変えていくのは、わたしたちの責任。
いうまでもなく、天皇という名で呼ばれる人も、誰ともかわらぬ一人の人間であるわけです。
一人の人間にあまりに重たい仕事(日本国民全体を統合する象徴!?というのは、まったく不可能なこと)を負わせるのはおかしいと思います。時代名まで、一人の人間の死で変わってしまう。
近代市民社会の成立とともに、そのありようを改革するのは当然でしょう。
「天皇制」のありようを考え変えていくのは、われわれ主権者の意思=自由と責任です。憲法第一条に、象徴という天皇の地位は、【主権の存する日本国民の総意に基づく】とある通りです。
みなで議論すべきことです。
武田康弘
公務を行ういまの天皇制は、主権在民の原理とは矛盾していますので、人権を認められない天皇という存在を許してしまいます。
天皇となる人間の個人的幸福をつくらないシステムは、時代錯誤であり、そういう存在を国民統合の象徴とするのは、異様な思想というほかないです。
皇族も皇族外の国民も共に、豊かな人「個人」になれません。
今回、明仁さんは、「個人」としてと明言していますが、それは、「個人がない天皇という存在」への違和感を表しています。
『個人』という人類が到達した最高度の意識=存在を肯定し前提としない極右(安倍首相ら閣僚の所属する「日本会議」)の思想は、人類的レベルでの犯罪であり、独裁国以外では認められていません。ドイツをはじめ民主政国家では、危険なカルトとして取り締まりの対象です。