★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

聖子ちゃんも西田幾多郎もお花畑

2010-05-08 02:11:23 | 思想
昭和11年に西田幾多郎は処女作『善の研究』を振り返って、こういうことを言っている。(「版を新にするに当つて」)

「フエヒネルは、或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らひながら、日麗に花薫り鳥歌ひ蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽つたと自ら云つて居る。私は何の影響によつたかは知らないが、早くから実在は現実そのまゝのものでなければならない、所謂物質の世界といふ如きものは此から考へられたものに過ぎないといふ考を有つてゐた。」

そしてこう文章を閉めている。

「此書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。」

フェヒネルや西行をこれ見よがしに引いてくる西田の文学的貧困を批判するのは自由だが、こういうセンスと発想に対してどう振る舞うかというのはいまだに文学的課題だと思う。

我々はいまでも、花鳥風月的なものと源氏物語的な色好みの世界がつくる磁場の中に生活しているのではなかろうか。

思うに、松田聖子に殊更スキャンダルがつきものだったのは、彼女の歌が源氏物語としてはお花畑すぎたので、メディアが色好み的なニュアンスを付け加えようとしたからかもしれないのだ。(彼女が映画「千年の恋 ひかる源氏物語」に出演し、その演技と歌で映画をぶち壊したのはその腹いせだったのだ。ナットクである。)

三島由紀夫なら「皇室が色好みの伝統を捨てたからである」と、もう一回腹を切るところだ。