黒澤映画の「まあだだよ」を10代の頃見て、ここにでてくる内田もその弟子も完全に「嘘」であり、特に弟子達みたいな人間には絶対になるまいと思って以来、内田百というのはどうもどこが面白いのかよく分からないのであるが、列車からみえる風景や列車の中での出会いの描写が近代文学の大きな部分をある種担ってきた以上、何かあるに違いない。と思って漫画版まで読んでみたのだが、何もないのだ。そのないというところがミソであろう。内田百はすごく抽象的な作家だと思う。何も用事がないのに大阪へ、というところから始まる本作であるが、
この抽象的な運動のために、周りの人々がいかにこの作家の尻ぬぐいをしていたかを考えるとぞっとしないでもない。同行者ヒマラヤ山系はさぞ苦労したことであろう。内田百が好きな読者でユーモアのセンスがあると思しき人には出会ったことがないから、「阿房列車」の独自性は、そのユーモアを模倣しようとすると、模倣者にユーモアを喪失させるというものであったかもしれない。ある種の鉄ヲタのバイブルともされているが、その鉄ちゃんたちはもうちょっと孤独で饒舌であるから、ちょっと違うようにも思う。まあしかし、家族をぞろぞろ連れた旅よりはまし。
内田先生の複雑な家族事情からの逃避だったのかもしれない。旅はいろいろ思い出すものだが、なるべくいろいろ思い出したくないから、こうなったのかもしれない……。いろいろ思い出すまいとしてきつい旅というものは案外あるものじゃなかろうか。