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読んだ。解説の糸井重里も言っているけれども、ここには自己否定の激しさみたいなものがある。先日の『赤い雪』にはあまりそれは感じなかったけれども。中野重治と柳田國男の違いみたいなものかな……。
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昔のこういう本には、作品に子どもの名前と指導者の名前とが載っていることが多いと思うが……。冗談半分で言うのであるが、戦争責任は子どもにあるのであろうか、指導者にあるのであろうか。私はどちらにもあると思う。さしあたりは、そんな認識はあるべきである。だいたい、こういう戦争をあおる作品がでてくるにあたり、果たして指導者が一生懸命だったのか、子どもが一生懸命だったのかは容易に決められない。子どもは指導者に脅迫されているが、指導者も子どもに同時に脅迫を受けている。教壇に立った者なら、有象無象の輩の(しかも「社会」が背後に控えている)発する同調圧力の物凄い波動を感じなかった者はあるまいよ。
わたくし自身を振り返ってみても、子どもの時の過ちは案外大人になってそれを必死に打ち消そうと思うものである。あるいは「今更やめられない」という感じで過ちの合理化を一生懸命はかるか、どちらかなのではなかろうか。ある程度大人になると、やっちまった時に屁理屈付けてるから反省の質が違ってくるが、子どもの場合の過ちは大人になって全否定、あるいは全肯定しなければ自己同一性が保てなくなるのではなかろうか。しかも、上の戦争の終わったあとの場合のように、大人から「あれは過ちでした~」と、過去を他人から全否定され、子どもだからという理由で罪を免罪された子どもは大人になってどう出るか。自分で自分を罰しようと思うのではなかろうか。もちろん、大勢の子どもたちはそうでもないかもしれん。大人達だって大半は過ちが何なのか罪があるかないかなんかは考えてやしなかった。大江健三郎や「自己批判」運動に走ったインテリを世代の代表として扱う訳にはいかないであろう。でも、誰かが自分だけにはない責任をひっかぶって自ら「私が悪かったことにするから」と大人ぶる必要があったのではないか。そうすれば、上のように自己同一性などという幻想に向かって合理化を続ける思春期的状態を続けることもなかったのではなかろうか。連合軍が天皇を免罪してそういう大人にしなかったことがあるんだとすれば、まあ、うまいことやられたということである……
……無論、以上の事情は、巷を騒がしているいじめ問題とも関係がある。