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演習で漱石をやっているので、「文鳥」とか「手紙」とか「変な音」とかを読みなおしたが、本当に上手だなこの野郎、という感じである。
幼児の時、お話レコードというのをよく聞いていたのであるが、私が心底恐ろしかったのは、オスカーワイルドの「幸福な王子」で、相棒?のツバメが死んで墜落したあと、こう続く。
At that moment a curious crack sounded inside the statue, as if something had broken. The fact is that the leaden heart had snapped right in two. It certainly was a dreadfully hard frost.
英文でなければ読めない、いまでも恐ろしい場面である。私は、次第に王子が石になってしまってついに心臓が割れてしまったのだと思っていた。この話が、平凡社の『ゲイ小説集』に収録されているのをみつけて、読み直してみると、王子が死んだのは体の大部分をなくしたからでも寒さのせいでもないことが分かって、とても悲しかった。考えてみれば、文学の読解の醍醐味は、解釈がなぜか不意に積み重なることにある。それは人生よりも――救済のように劇的に訪れるものである。人生は複雑すぎて救いにはほど遠いが、テキストの解釈は救いをもたらす。たぶんキリスト教の人たちはそれをよく知っている。――これは、長い時間がかるものであって、はやく第一の解釈を経験しておく必要があるのだ。
漱石は、たしか中学の時に初めて読んで、高校で「文鳥」や「倫敦塔」を読んで、すごいと思った。
自分はいきなり布団の上にある文鳥を握って、小女の前へ抛り出した。小女は俯向いて畳を眺めたまま黙っている。自分は、餌をやらないから、とうとう死んでしまったと云いながら、下女の顔を睥めつけた。下女はそれでも黙っている。
自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へ端書をかいた。「家人が餌をやらないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」と云う文句であった。
自分は、これを投函して来い、そうしてその鳥をそっちへ持って行けと下女に云った。下女は、どこへ持って参りますかと聞き返した。どこへでも勝手に持って行けと怒鳴りつけたら、驚いて台所の方へ持って行った。
しばらくすると裏庭で、子供が文鳥を埋るんだ埋るんだと騒いでいる。
文鳥が死んだ理由は分からない。上の記述を読んで、この作者は天才だと思ったが、「たのみもせぬものを籠へ入れて」という部分は昔は読み飛ばしていた。ただ、わたくしは、むかし鳥にえさをやるのを忘れて殺してしまったことがあったので、下女の気持ちも「自分」の気持ちも、「子供」の気持ちも分かるような気がしていただけだ。漱石が文鳥にだけヒステリックな愛情を持っていたことが高校生の私にはいまいちぴんとこなかったのである。
考えてみると、いまでもぴんとこない。