★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

今日気付いたこと

2015-08-24 23:00:33 | 日記


・健康診断で発覚したのであるが、なぜか身長が伸びた。

・一箇所だけであるが、永久歯の下に新たな歯が発見されたことのあるわたくしである。

・以上のことからわたくしが人間ではない可能性がある。

・「ドストエフスキーは、「もし神が存在しないとしたら、全てが許されるだろう」と書いたが、それこそ実存主義の出発点である。いかにも、もし神が存在しないなら全てが許される。したがって、人間は孤独である。なぜなら、人間はすがりつくべき可能性を自分の中にも自分の外にも見出し得ないからである。人間はまず逃げ口上をみつけることができない。もし果たして実存が本質に先立つものとすれば、ある与えられ固定された人間性を頼りに説明することは決してできないだろう。いいかえれば、決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、我々は自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうして我々は、我々の背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上も持ってはいないのである。我々は逃げ口上もなく孤独である。このことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身を作ったのではないからであリ、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。」(サルトル「実存主義とは何か」伊吹武彦訳)

・私には責任はない。