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フランスとシリアと言えば、ストリンドベルクの「ダマスクスへ」を思い出す。フランスは、たしか、神を冒涜したとかでストリンドベルクを国外退去処分にしている。なんとひどい国であろう。ストリンドベルクを読んでいると、あまりの不幸っぷりに、「自業自得だ」と言いたくもなるが、不幸が個人の性向からでてくるのをわたくしは信じない。フランスとストリンドベルク、フランスとシリアの関係は、世界中至る所にあるのだ。しかし、たまたまパリが発火点に選ばれただけとは私は思わない。それだけの歴史的経緯があそこにはある訳で、テロなんか、単なる歴史的必然であるように思われる。
ただ、我が国とお隣の国の事情でもそうだが、歴史的必然を説明しようとしても、それは絶対に、人びとの怨念を説明するところまでいかない。小林秀雄じみた言い方になるが、それは確かである。呟き・顔面本の世界になって必ずしも怨念が見えるようになったとは私は思わない。しかも、その説明は問題を完了しようとしているので、ますます泥仕合は避けられないのも現実である。
そういえば、わたくしにも、ピチカートファイブの曲を聴いてウキウキするようないまいましい時代があって、もうオウムや日米安保共同宣言やらの頃で……、急速に日常のいたるところに「人生は目的をもった戦いだ」的ななにかが出張ってきたような気がしていた。何をやって食っていくかが問題になったお年頃なので、そう見えたのかもしれないが、たぶんそれだけじゃないと思う。ストリンドベルクを何編か読んだのはちょうどその頃である。20世紀が、決して「不安の時代」などというぬるいものではないことが彼の作品からは感じられるのである。ファシズムは、民主主義の失敗などというものではない。
戦争と平和は対義ではない。平和を守るために戦争があり、平和から見ればそれを脅かしに飛んでくる何かはテロであろう。こういう発想の時に、戦争と平和が対義になってしまう。
「戦争=平和」の対義は、遊びだと思う。テロと言われるものは、我々から遊びを奪い、目的同士の戦いに導こうとしている。そんなきつい状態に我々が自然に導かれるとしたら、我々がもうテロリスト並みの抑鬱状態にあるからである。
ひさしぶりに、ピチカートファイブを聴いてみたら、やはりここには無理矢理遊ぼうという感じがなくはないと思った。いまの多くのJPOPほどじゃないにせよ。