「突入せよ!あさま山荘事件」をみた。事件を警察側から描いた作品だが、長野県警と警視庁組の諍いとか、作戦の失敗などを、ちょっとコメディタッチに描いている。そしてそこを批判する向きもあるが、宮使いの人たちというのは案外あんなノリなのではなかろうか。何しろ、仕事なのだ。成功させなければならない。そのためには、リラックスして頭を使う必要があるし、むやみに人と対立してはならない。――こんなんだから、きちんとした批判が必要なのだ。が、批判する側も、その批判を成功させるように動かなければならない。他人の死にも過剰に怯えてはならないし、過剰に家族に依存すべきでもないし、拒否すべきでもない。問題は、そのことを踏まえた上で、だからだめな奴と、だからだめでない奴と分かれるのはなぜかということである。そこではじめて学問やらが必要になる。この映画の場合、映画の最後に、自分の行ったことに疑問を持った警視庁の主人公が、お偉方の電話で疑問が一瞬で吹っ飛ぶ。我々の要請されている「主体性」とはだいたいこのようなものであって、まさにそこが連合赤軍の連中と思考が瓜二つであった。
若松孝二がこれをみて、連合赤軍の側からの映画を撮ったのはよく知られているが、わたくしは、上記の理由により、その映画もこの映画同様失敗作だったと思う。