大学に出向してきている人たちへの批判が、ついに国会でも出てきたらしい。それはともかく……
仕事の合間に、森恒夫の「自己批判書」をちょっと読んだが、やっぱり、彼の「自己批判」というのが、最近の自称改革(笑)とかなり似ているのが気になる。自己批判は、心の隅々を点検する内向的なものですらなくて、理屈を実践的な何かで置き換えて行く改革運動であり、組織の長とすりゃこれじゃ粛清でもしなければもやもやが晴れないのは当たり前である。要するに、理論を「実践」することではなく、理論ではなく「実践」だという置き換えが、少なからず何かを「粛清」するものであるという、小学生でも知っていることを思い出すべきだったのである。理論の実践というのはつねに絶対に失敗するものである。そしてだれかがその尻ぬぐいをしながら勝手に軌道修正をはかりながらずるずると進んで行くのである。それがダメなのではなく、犠牲者はその方が少ない。しかし、最近は、どうもそれらしい「実践的理論」がつくられ、論文を見るとなんだかうまくいきすぎている。もちろん必ず嘘が混じっているのだが、こんなことを繰り返していればうまくいかないことが非常に腹立たしく思えてくるに決まっている。そういう「実践的理論」は、理論と実践の乖離を認めないからほとんど「服務規程」と化してしまうわけで、そんな規定が大好きな様々な想念の矛盾に耐えられない頭の輩、つまり人に命令したがっているルサンチマンに満ちた輩がそこで元気になる。それで、「実践」信仰がつねに何らかのかたちでの軍隊化を意味するようになり、やたらお前はクビだとか、自覚がないやつは死刑だとか、講義じゃなくアクティブラーニングだ、とかになってしまうのだ。それらはルサンチマンが絡んでいるから、必ず、理論的に悩んで行動が遅くみえる人々の迫害に終わる。
例えば、講義よりアクティブラーニングを、といったスローガンは、マルクス読むより山小屋での「総括」を重視するようなものだ。いくら後者が内容が濃いものをするのだと言い張っても、議題を外れることが許されないように、ある程度の思考力が奪われるのが前提になっているのは自明の理のような気がする。学びや思考に対してアクティブとか主体性などという形容をつけてる時点で、頭が全く働いていないのは置いておくとして、主体性を支援するという言い方が、赤軍の、自己批判・主体性確立を援助する、という言い方にそっくりなのはすごい。人間が感じたり考えたりすることは、主体性みたいなものよりも広く複雑で猥雑なのである。主体性とはそれを抑圧することである。やはり危ない。
すなわち、社会の役に立つとか、実践的な研究だとか、そういうことを言っている人間は全員既に一歩森恒夫になりかけている。大学の授業が現場のためにこそあるというのは、二歩森恒夫になりかけている。森は、本当に最後は自己批判を実践してしまったので、まだ「自己批判」の非実践的亡霊が有効に働いていたのであろう。が、いまは、最後に「実践的な自己を礼讃」という結末が待っているだけの人々が多く、お話にならない。つまり、まだ彼らは山奥でリンチの最中なのだ。
だから、トランプの「今は実行の時」とかいうせりふは極めて危険である。水責めも良いことにするそうである……
まあ、一般には、そんなスローガンやらルサンチマンが絡まなくても、出世のために糞みたいな命令にも喜んで従っている連中がほとんどである。問題は、遠くの首相よりも近くの上司だ。
仕事の合間に、森恒夫の「自己批判書」をちょっと読んだが、やっぱり、彼の「自己批判」というのが、最近の自称改革(笑)とかなり似ているのが気になる。自己批判は、心の隅々を点検する内向的なものですらなくて、理屈を実践的な何かで置き換えて行く改革運動であり、組織の長とすりゃこれじゃ粛清でもしなければもやもやが晴れないのは当たり前である。要するに、理論を「実践」することではなく、理論ではなく「実践」だという置き換えが、少なからず何かを「粛清」するものであるという、小学生でも知っていることを思い出すべきだったのである。理論の実践というのはつねに絶対に失敗するものである。そしてだれかがその尻ぬぐいをしながら勝手に軌道修正をはかりながらずるずると進んで行くのである。それがダメなのではなく、犠牲者はその方が少ない。しかし、最近は、どうもそれらしい「実践的理論」がつくられ、論文を見るとなんだかうまくいきすぎている。もちろん必ず嘘が混じっているのだが、こんなことを繰り返していればうまくいかないことが非常に腹立たしく思えてくるに決まっている。そういう「実践的理論」は、理論と実践の乖離を認めないからほとんど「服務規程」と化してしまうわけで、そんな規定が大好きな様々な想念の矛盾に耐えられない頭の輩、つまり人に命令したがっているルサンチマンに満ちた輩がそこで元気になる。それで、「実践」信仰がつねに何らかのかたちでの軍隊化を意味するようになり、やたらお前はクビだとか、自覚がないやつは死刑だとか、講義じゃなくアクティブラーニングだ、とかになってしまうのだ。それらはルサンチマンが絡んでいるから、必ず、理論的に悩んで行動が遅くみえる人々の迫害に終わる。
例えば、講義よりアクティブラーニングを、といったスローガンは、マルクス読むより山小屋での「総括」を重視するようなものだ。いくら後者が内容が濃いものをするのだと言い張っても、議題を外れることが許されないように、ある程度の思考力が奪われるのが前提になっているのは自明の理のような気がする。学びや思考に対してアクティブとか主体性などという形容をつけてる時点で、頭が全く働いていないのは置いておくとして、主体性を支援するという言い方が、赤軍の、自己批判・主体性確立を援助する、という言い方にそっくりなのはすごい。人間が感じたり考えたりすることは、主体性みたいなものよりも広く複雑で猥雑なのである。主体性とはそれを抑圧することである。やはり危ない。
すなわち、社会の役に立つとか、実践的な研究だとか、そういうことを言っている人間は全員既に一歩森恒夫になりかけている。大学の授業が現場のためにこそあるというのは、二歩森恒夫になりかけている。森は、本当に最後は自己批判を実践してしまったので、まだ「自己批判」の非実践的亡霊が有効に働いていたのであろう。が、いまは、最後に「実践的な自己を礼讃」という結末が待っているだけの人々が多く、お話にならない。つまり、まだ彼らは山奥でリンチの最中なのだ。
だから、トランプの「今は実行の時」とかいうせりふは極めて危険である。水責めも良いことにするそうである……
まあ、一般には、そんなスローガンやらルサンチマンが絡まなくても、出世のために糞みたいな命令にも喜んで従っている連中がほとんどである。問題は、遠くの首相よりも近くの上司だ。