★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

洪水はわが魂には勘弁

2017-01-08 23:44:37 | 文学


大江健三郎はわたくしが崇め奉る作家の中で上から三番目ぐらいの人であり、日本の中でまじめに『聖書』の書き手たらんとしているところなど、あまりにも俗人の底をつき抜けている。

かなり久しぶりに読み直してみた『洪水はわが魂に及び』も、その洪水のように押し寄せる俗っぽいゲスな展開は、そこらのエロ本なんか全く太刀打ちできないほど非道い。大江のことをユーモア作家だとかいう評者をわたくしは信じない。この作者は、本物の俗人であり悪人である。むかし、中上健次が「あさま山荘」事件に同情的な小説とか言っていたが、同情的なのは中上の方であって、大江は、どうみても事件を全否定していると思う。作中で主人公が言うように「すべてよし!」とは、作中の展開のことを言うので、連合赤軍にまつわるすべてについては「すべてだめ、ですよ」であろう。懇切丁寧に、現実の事件のすべてを修正しているではないか。

というのは、適当な感想である。

とはいえ、『光の雨』みたく雨蕭蕭してみたり、『漂流記』みたく舞台が海でも山でもよかろうという感じにしてみたり、『食卓のない家』みたく、最後かわいそうな女子を泣かせてみたり、といった感じで、水量に遠慮がある作家とは、大江は違う。

「自由航海団」が崩壊し、機動隊の放つ放水が「反転して彼(主人公の勇魚)に襲いかかる」あたりから、死という言葉がついに口にされない結末部の、なんだかすごい水は、まるで小学生が消防隊に対して夢みるそれであり、興奮させる。赤軍は、殲滅戦とかいいながら、殲滅する相手を選んでいるのに手間取っているが、大江は本当に人類の殲滅に興奮するタイプである。こういう人間だけが救いを求める。どうもわたくしは、大江氏が実存的な問題にとどまるためには、あまりにも悪人でありすぎるのではないかと思っているのである。

だいたい大江氏は健康のためにプールに通ったりして水が好きなようだが、わたくしはいやだ。水は冷たいし、水遊びが好きな子どもは下品である。我々は海からあがってきた生物なのだ。もうそんなところには帰りたくないね。だから、わたくしは、俺は大江の「自由航海団」みたいなヨットじゃなくて潜水艦だぞ、といわんばかりの「沈黙の艦隊」もいやだし、最近映画化されるらしい「海賊」も好かない。