松本清張の「潜在光景」を映画化したのが「影の車」である。若い岩下志麻を眺める映画である。
阿部公彦氏の『史上最悪の英語政策』を激読(
この本で戦犯として名指されているのが、安河哲也と松本茂である。そういえば、松本氏の本は以前めくってみたことがあった気がする。
この本のクライマックスは、156ページからの新指導要領の添削である。コミュニケーションという言葉の入った部分をすべて削るとすばらしい文章にはや変わり。これは英語だけではなく、ほかの教科でもおなじようなことがいえる。わたくしも、以前、ある人に頼まれて指導要領の文章を添削したことがあるが、悪文をものすことにかけては天才のわたくしにかかってさえ、すごくまともな文章に化けた。よい文章とは、「まともさ」があることを言う。この「まともさ」には反論も可能だから自由な議論が生じて認識の上昇があり得る。「まともさ」は決して「わかりやすさ」ではない。「まともさ」を奪っている原因の一つが、意味がはっきりしているようでしていない言葉を無理矢理入れることである。「コミュニケーション」とか「主体性」とかが入っていれば「わかりやす」く感じる頭のあまりよろしくない人にかかると、新指導要領なんか結構わかりやすいのである。しかし決して「まとも」ではないので、その狂ったスローガンだけを連呼する幇間たちは繁茂するが、議論も評価も生まれない。反論しようとすれば「ばかじゃねえの」ぐらいの反応が正直なところ、になってしまう。――なぜ、こんなことをするのか。簡単である。目的が、読む側(教員)の自由を奪うことにあるからだ。――罵倒を繰り広げる巨大掲示板の人間に思考の自由がないように、不満分子ではあるが自由がない、そんな状態におくためだ。
もともとコミュニケーションという言葉は、阿部氏の引く例でいうと、ゴッフマンをはじめとして、有効な理論的なツールである場合がある。ゴッフマンは個人的にはなんかいやだけど……。それを意味不明な言葉にしてしまったのは、阿部氏も言うように、粗雑な連想的な文脈の接続にこの言葉を使ったからだ。英語の会話の問題と、共同体の衰退の問題とか……。〈常識〉においては、こういう問題を一緒くたにするのは頭があまりよくないと判断されるのであるが――、それを一緒くたにすることこそが「わかりやすさ」だと思っている人たちがすごく多くなってきている。
結論:阿部公彦氏は、いつも安部公房を思い出させる。