★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

革命記念と娘の結婚

2018-01-25 23:35:14 | 音楽
気分が沈みがちな時には、プロコフィエフの「十月革命20周年のためのカンタータ」が私にとってのドラッグである。シュワルツネッガーが出ていた「Red Heat」という映画のエンディングテーマとして使われたことで少し有名になった曲である。訳ありで、初演に三〇年もかかってしまい、十月革命二〇年記念どころか、五〇周年記念ぐらいになってしまい、逆にソ連崩壊まであと二〇年ぐらいしかなかったのであった。作曲者も、もう死んでた……。歌詞が確認できないので、よくわからんが、レーニン、マルクス、スターリンの名言をつなげているようである。今度下の動画でもゆっくり訳しながら…という気にもならんが…ヴィラ・ロボスのショーロス12番なども好きな私は、お下品にとっちらかった曲に惹かれる傾向がある。

https://www.youtube.com/watch?v=7r1adsrxz5c


ロシア音楽の作曲家は大砲とかピストルを楽器だと思っている節がある。マーラーを描いた風刺画に、「これも交響曲に使えるぜ」みたいなことをマーラーが言っていろいろなものを集めているのがあったような気がするが、マーラーはまだ牛の首にある鈴とかでかい金槌とか千人の農民兵合唱隊でとどまっており、まさにドイツロマン派の農民臭さを忠実に拡大しているだけの話なのである。――しかしよくわからんがプロコフィエフにしてはあんまりひねくれていない曲のような気がする。「古典交響曲」とか「シンデレラ」とかの方がよほどめちゃくちゃなことをやりくさっている、ように思われる。わたくしは昔吹奏楽で「シンデレラ」を演奏して、この作曲者の「演奏できない連中は十二時前に速やかに銃殺だ」みたいな感性に非常に腹を立てているのである。こういう曲とか、ショスタコーヴィチの交響曲第4番とかをちゃんとすぐに初演できないソ連という国、やはりセンスがおかしかった。いまや、オリンピックの壮行会で気持ち悪く集団応援みたいなことしたり、喜び組みたいな集団舞踊に気持ち悪く喝采しているという意味でセンスが北朝鮮に接近している我が国でさえ、昔のオリンピックなどでは、三善晃や湯浅讓二にファンファーレを書かせたりしていたわけで、まだましであった。ずっとましなわけではないが、過去の記憶というものは現在の愚劣さより大事である。

ところで、この前中井貴一や波瑠、満島真之介といった皆さんが「娘の結婚」というドラマに出ていた。「東京物語」や「麦秋」の危険な香りはどこへやら。娘が結婚相手として連れてきた相手が、昔集合団地?の奥さんグループのなかでちょっと「トラブルメーカー」のように扱われていた奥さんの息子なのであった。団地で起こった自殺もその人のいじめが原因だという説が週刊誌に載ったこともある。そこで父は調査してみたり、記憶を探ってみたりする。で、むしろ彼女がいい人だとわかったし、死んだ妻とも仲良かったらしいので、結局、結婚を祝福することにしたという話である。父親は、母親とは縁を切ってもいい、と言い放つ結婚相手を静かに叱責する、「逃げちゃだめ。君にとって母親はどういう存在だったのか考えてみよ。子のことを大事に思わない親はいない」と。確かにいまの我々の社会は、「いい人」と「トラブルメーカー」が二項対立してしまうようなばかげた倫理観が横行しており、まったくこの人たちの改心は期待できない。だから、そんな人々は気にするな、という呼びかけが有効なのはわかる。しかし、ここでも親子の絆みたいなものは自明の理なのである。わたくしは、てっきりその結婚相手が「わたしにとっても、母親はトラブルメーカーでした」と言うのかと思った。ここでそう言わせないと、人間探求の道は始まらない。だいたい娘も、父親と普段からラインばっかりして癒着しすぎなのだ。波瑠女史、そこは、突然の駆け落ちだろうがっ。

不自然ですね。はいはい、リアリズム、リアリズム……。日本で小説家などに「リアリズム」が異常な反感をもたれてきたのは、日本でのリアリズムというのが、社会主義リアリズムと同じで、単に「馬鹿の命令」をそのままリアルに実現してやることだからである。