昔男が筑紫に行ったときに、簾の中から「あら風流な男っ」と言われたので
そめ河を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ
と詠い、女が
名にしおはゞあだにぞ思ふあるたはれ島浪のぬれ衣着るといふなり
と返した。
アメリカ文化はスポーツ、スリル、セックスの三Sだと云はれるが、スリルは即ち知識的には探偵小説、実践的にはギャングとGメンで、凡そアメリカ文学は文化国に於る最下等に属するものだが、探偵小説だけは例外で多くの傑作を生んでゐる。又、セックスと云つても、日本の恋愛は一般に純情であり潔癖淡白で、好かれた同志が外部の障碍を突破して目出たしといふ筋書であるが、アメリカは然らず、厭がる女を長年月にわたり手練手管、金にあかし術策を尽して物にするといふ脂ぎつた性質である。
要するにスポーツ、スリル、セックス、品は変れども同趣味で、執拗なる根気と、術策と手管、之が彼等の日常の人生であり趣味であり信条だ。
――坂口安吾「予告殺人事件」
坂口安吾は、三Sが「日常の人生であり趣味であり信条だ」というが、そうだとすれば、上のやりとりなど、われわれの「日常の人生であり趣味であり信条だ」がどういうものか示していると言えなくもない。要するに、こういうやりとりに対して「で?」という質問はできないことになっているのがわれわれの世界なのだ。政治なんか、ほとんどの現象が上のやりとりみたいなものであり、いまはアメリカの生活の影響もあるから、うわべは染め河だたはれ島だとかと遊んでおきながら、裏では金でいやがる人間をもてあそぶ。安吾はモテなくても純情だと自分を思いたいせいか、アメリカが下等に見えてしまっていた。安吾より普通の人たちはもっとそうだったに違いない。我々は転向したという言い訳を屡々するものだ。
われわれは恥を知る以上に、目を覚ます必要がある。