親鸞 お前はふしあわせだった。
善鸞 わたしは悪い人間です。わたしゆえに他人がふしあわせになりました。わたしは自分の存在を呪います。
親鸞 おゝおそろしい。われとわが身を呪うとは、お前自らを祝しておくれ。悪魔が悪いのだ。お前は仏様の姿に似せてつくられた仏の子じゃ。
善鸞 もったいない。わたしは多くの罪をかさねました。
――倉田百三「出家とその弟子」
倉田百三が案外読まれていたことの意味をあまり侮ってはならない、とわたくしは思う。文化には読者などの消費者の土台というものが必要で……。というのはあまりにも思い上がっているとしても、救済の道具としての文学は確実に存在したのである。そのなかには、むろん、ファシズムの快感に属するものがあり、それはなおかつある者にとっては救済である。考えてみると、こういうことは大江健三郎よりも三浦建太郎(名前が似ている……)の方が分かっているかもしれない。