肥下恆夫の「速度と筆」はこれまた自動筆記みたいな作品だが、坂口安吾の「文字と速力と文学」を思い出させた。が、安吾にある、想念の速力と文字との関係にについてのあれこれな試行錯誤が肥下には感じられない。梶井基次郎の「檸檬」をせかせかしたポップな前衛映画にしたらこんな感じになるのかもしれない。映像を意識した表現は余白がなくなって締まるが、表現され得ることがすべてて、それがなくなったら無みたいな発想になりがちなのではないだろうか。
「大いなる流れ」という表現があって、この流れに躊躇している俺という人物がいることになっているが、その設定自体がフィクションである。しかし、そういうことを書いている肥下は現実だ。その現実については示唆らしいものがばらばらと書かれているが、とにかく、いやなことを肥下が押しつけられつつあったことは分かる。ただ、肥下にとって「停止」というものは恐ろしいことで、とくに文字の停止は観念の停止を意味するがごとく感じられていたらしい。最後は、アイロニカルに「停止」と終わっているが、本当の気分はアイロニカルではない。
安吾は、想念を書き留められたらそちらの方が健全だと一時は考えたのかもしれないが、――われわれのなかには、文字につられて想念が速力を増してしまい止まらなくなってしまうタイプもいる。
方法二つ。できる。こしらへる。できなければこしらへろ。できなければこしらへられない。だが俺にはペンが必要だ。詩人に必要なペン詩人はペンを携帯す。果てしなくわれは憂し。憂きわれは。憂鬱なる俺。憂鬱なる俺は柘榴に皮ごとかぶりつき倦怠を味わってゐる。さうだ、俺は火の匂いをかぎながら暮らしていた。
書き写していたら、なんとなく名文に思えてきたが、――もう少し酒とイケナイ薬を入れれば、太宰みたいなせりふが後一歩ででてきそうな感じが……。