さやわかと西大介編集の『マンガ家になる!』というインタビュー集を読んでいると、かなりの固有名詞が分からない。編者たちも言っていたが、まんがの全体像が分からなくなって、みんな好きな物しか読んでいないような状態が危ないと……。そういえば、文学でもそうなっている。おそらく、小説における「全体小説」の時代、まんがにおける何でも屋手塚治虫などは、その読書の網羅性と関係があるのだ。全体的なことを言うためには、全体的に読まなくてはならないわけであった。
あとは、作品が世に出る行程の問題で、その全体性もよく分からなくなっている。だからこういう本が必要になっているのだろう。
マンガ家になるためには、とにかく一日中描きまくらなくては、と――考えたわたくしなどにもそういう陥穽がある。
ところで、伊勢物語の男は、仕事が忙しい時代に女に逃げられたのだが、そのあと、その女の結婚している所にやってきて
女あるじにかはらけとらせよ、さらずは飲まじといひければ、かはらけとりていだしたりける
という状況が嫌らしい。で、有名な
さつき待つ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする
という古歌が出る。この歌を聴いた女は出家してしまう。このとき男には、「宇佐の使」という巨大なものが被さっている。このことが無関係であったはずはないっ。男は、一度は単に逃げられた女を、ついに自分の仕事で女を圧倒したことにしたのである。なんたるパワハラ……。
マンガ家たちは、たとえ女の立場にあっても絵を描き続けなくてはならない。『マンガ家になる!』に出てきた作家たちはエロまんがの経験者が何人かいたように思うが、エロまんがというのは、なんとなくであるが――、生活の中で中性的な感じがする。上の橘の歌のシーンが酷薄な生活を感じさせるのに比べて――。わたくしは、ここに、日本でエロ文化が生き生きとしている理由があるように思えた。