一日著暖たる物具なれば、中と当る矢、箆深に立ぬは無りけり。楠次郎眉間ふえのはづれ射られて抜程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。
四條縄手の戦いは太平記のクライマックスの一つである。昨今の、ヤマト、イデオン、エヴァンゲリオンなどの殲滅系のアニメーションが甘いのは、こういう白兵戦のぐだぐだこそ、戦争の恐ろしさであり、人間のおそろしさであるのに、これから逃げ回っているからだ。原爆みたいな必殺兵器の使用がまずかったのは、あれが戦争ではなくどちらかというと政治を表象するからである。我々は、原爆を落とされて戦争をやっていたことを忘却させられたのだ。あの戦争は、もちろん戦争である限りは本土決戦で終わるべきだったのである。我々にそのきがそもそもなかったことが暴かれて、まったく生き恥をさらされているのである。
それはともかく――、敵の手にかからないで死ぬというモラルは、いまでもなんとなくわれわれの中にある。相手の存在を悪魔にみたいに想定しているが、ほんとうはもっと内面的なものではないか。ショーペンハウアーがいうより我々の生き方は、なにか「生き恥」という感じがするからだ。我々は、そもそも自分の人生もふくめて変化に弱いところがある。何か急激な変化に対して「スミマセン」「もうしわけない」「ごめん」の合体した感情に襲われるのである。
四季の変化も実はかなりゆっくりである。我々は桜に大騒ぎしているけれども、これは変化を無理矢理時間的に解して大騒ぎするだけで、本当は、ゆっくり変化を感じながら生きたいのである。
わたくしが子どもだったせいもあるだろうが、山国の春はすごくゆっくり進行していた気がする。ゴールデンウィークにかけてゆっくり桜や菜の花が咲いてゆく。そして暑くなるまでに三ヶ月ぐらいあって、短い夏休みの途中でもう秋っぽくなってゆく。そして11月頃には雪が降って4月まで続く。我々が感じてた季節の推移とは、こういうなんだか緩やかな流れを前提にしてたんじゃないか。四つの季節があるとかじゃなく。知らないうちに訪れる変化だから変化らしいのである。
今住んでるところの、4月にいきなり夏が来て10月まで酷暑とか、変化じゃなくてもはや変異としかいいようがない。
今日は夏日だった……。今年も暑いのかなあ