★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

王化した馬について

2021-04-16 23:32:33 | 文学


世の治らぬこそ道理にて候へ。異国本朝の事は御存知の前にて候へば、中々申に不及候へども、昔は民苦を問使とて、勅使を国々へ下されて、民の苦を問ひ給ふ。其故は、君は以民為体、民は以食為命、夫穀尽ぬれば民窮し、民窮すれば年貢を備事なし。疲馬の鞭を如不恐、王化をも不恐、利潤を先として常に非法を行ふ。民の誤る処は吏り科也。吏の不善は国王に帰す。君良臣を不撰、貪利輩を用れば暴虎を恣にして、百姓をしへたげり。民の憂へ天に昇て災変をなす。災変起れば国土乱る。是上不慎下慢る故也。国土若乱れば、君何安からん。百姓荼毒して四海逆浪をなす。


「民の誤る処は吏り科也。吏の不善は国王に帰す」というのは、確かにそうなのであろうが、いまは国王というものを善行に導くことはそもそも難しく必然的にゴミクズ化することが、ほぼ科学的に明らかな以上、民が王がクズを侍らせているからだと文句を言っているだけではいけない。もうこういう道徳も第二次世界大戦の敗戦によって負けたのだとすべし。

ただ、現実はそうでもなく、おかしいやつが上に立つとやはり下もとんでもないことになっている――ようにどうしても見える。どうしてこういう感染が起きるのか。「なんか役職が付いている人〈だから〉すぐれていると思っていた」と本当に言う人までおり、とにかく何が何だか分からなくなってくるが、因果関係というものが存在しているかもしれないことさえほとんど意識しない人だって結構いるのだ。しかし、このような錯誤を学者だってけっこうやっているから、けっこう考えてみる必要がある。認識というのは、しらないうちに宝箱に入った砂利みたいなもので、それが何なのか分からないところがある。入ったからにはなにか意味があるらしく存在する。

それはともかく――、コロナで人にあまり会わなくなってから、普通に対面していればわかる「ああ、このひとはちょっと妙なかんじだ」とか「かっこをつけてるけどあまり実力はないんだな」みたいなことが分からなくなって、人に対する情報だけがひとり歩きするような状況が生まれている。人は人に会わないと情報に引き摺られて群れ化するのである。私は、孤独な群衆の意味がよく分かっていなかった。群衆は群れであることによって孤独であるので全体主義化したのだろうが、今回のように、ただ群れでなく単に孤独になったとしても、群れ化する。インターネットでとっくに分かっていた現象であったが、コロナでそんなことが現実の世界でも起こっている。

本当は、太平記の時代だって、そんなことがあったにちがいない。戦争は、共同体を破壊してしまうので。それで孤独な群衆が、壊れた共同性を望んで国王を頼り頭が悪くなってゆく。――というより、対面による総合判断みたいなものと情報が解離すると、我々はおそろしく頭が悪くなるようにできているのである。個人差はあるから、――頭の悪い者が暴走して全体の傾向を先導してしまうというべきか……。

情報の暴走によって生じた群れは、情報を鼻先にぶら下げられた馬みたいなもので、その情報以外が目に入らない。だから、自分がどのような状態にあるのかわからず、何も出来ないくせに、情報の論評ばかりする次第となる。

「万歳、王様万歳。」
 ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


この王様とは、メロスと存在を併せ持っている。群衆の喝采は、王様にだけ向けられているのではないからだ。だから、最後に裸を指摘されるメロスが一種の「裸の王様」であることは自明なのである。友情かなにかわからないものをぶら下げられたメロスは馬のような王様である。王様が鹿だと結局こうなる。