
後日に是を聞て、「十文の銭を求んとて、五十にて続松を買て燃したるは、小利大損哉。」と笑ければ、青砥左衛門眉を顰て、「さればこそ御辺達は愚にて、世の費をも不知、民を慧む心なき人なれ。銭十文は只今不求は滑河の底に沈て永く失ぬべし。某が続松を買せつる五十の銭は商人の家に止まて永不可失。我損は商人の利也。彼と我と何の差別かある。彼此六十の銭一をも不失、豈天下の利に非ずや。」と、爪弾をして申ければ、難じて笑つる傍の人々、舌を振てぞ感じける。
教育とは文化の実践である。生きるためにパンのみが必要というわけではないというのは、それが文化と化している発言であることによって教育となりうる。文化とは行為としてあらわれていなければならない。上の教訓話も、わたしはそのことを行い、まだ生きているということを示しているから辛うじて説教になっている。
難しいのは、こういう小銭の話だと上のような機能が働くのだが、これが崇高な理念となるとそうはいかないということだ。