
天下の乱一日も休む時無りしかば、元弘の始には江州の番馬まで落下り、五百余人の兵共が自害せし中に交て、腥羶の血に心を酔しめ、正平の季には当山の幽閑に逢て、両年を過るまで秋刑の罪に胆を嘗き。是程されば世は憂物にて有ける歟と、初て驚許に覚候しかば、重祚の位に望をも不掛、万機の政に心をも不留しか共、一方の戦士我を強して本主とせしかば、可遁出隙無て、哀いつか山深き栖に雲を友とし松を隣として、心安く生涯を可尽と、心に懸て念じ思し処に、天地命を革て、譲位の儀出来しかば、蟄懐一時に啓て、此姿に成てこそ候へ。」と、御涙の中に語尽させ給へば、一人諸卿諸共に御袖をしぼる許也。
北朝の光厳法皇と南朝の後村上天皇が会ったというこの場面は、史実かどうかは分からないらしく、――確かにあまりに静謐ないい場面だからである。平家物語も、後白河法皇が、建礼門院(高倉天皇の皇后)を訪ねておわるので、天皇や天皇に準じるものが交歓して物語の悲惨な世界を慰めて終わって行く行き方をしているわけである。
振り返ってみると、天皇が二つに割れてしまう展開は、パンドラの箱を開けたようなもので、今考えたらよけい陰惨な事態に思えてくる。平家のときもそうであるが、「天皇制」はなんども死んでいるのである。それを平家や太平記のような収束の物語が、現実でも行われ修復しているような気がする。語られないが、物語的に怖ろしく絶妙な行動をし続けた連中がいたはずである。勝手に目標を定めて破壊をもたらすものたちより、修復した連中の方が、なにか我々の文化に於いては創ることの神髄を持っている気がする。今もそうだが、形式論理的に目的に向かってひた走る人々は、最後に焼け野原に立っている。
文脈や実は何を言っているのかが問題にされず、認識をキーワードや論理のセットで受け取る人々には、物語的な修復が分からない。暴力は物語の否定である。
懐から孟子を引き出した、孟子を!
『ソラここを読んで見ろ』と僕の眼前に突き出したのが例の君、臣を視ること犬馬のごとくんばすなわち臣の君を見ること国人のごとし云々の句である。僕はかねてかくあるべしと期していたから、すらすらと読んで『これが何です』と叫んだ。
『お前は日本人か。』『ハイ日本人でなければ何です。』『夷狄だ畜生だ、日本人ならよくきけ、君、君たらずといえども臣もって臣たらざるべからずというのが先王の教えだ、君、臣を使うに礼をもってし臣、君に事うるに忠をもってす、これが孔子の言葉だ、これこそ日の本の国体に適う教えだ、サアこれでも貴様は孟子が好きか。』
――独歩「初恋」
この話のこのやりとりなんかはあまり好きじゃない。形式論理に過ぎない。ところが、このあとこの生意気な子どもが、初恋にして最後の恋をしてこの頑固な漢学者の家に婿入りしてしまう。
愛子は小学校にも行かぬせいかして少しも人ずれのしない、何とも言えぬ奥ゆかしさのあるかあいい少女、老先生ときたらまるで人のよいお祖父さんたるに過ぎない。僕は一か月も大沢の家へ通ううち、今までの生意気な小賢しいふうが次第に失せてしまった。
前に話した松の根で老人が書を見ている間に、僕と愛子は丘の頂の岩に腰をかけて夕日を見送った事も幾度だろう。
これが僕の初恋、そして最後の恋さ。僕の大沢と名のる理由も従ってわかったろう。
天皇たちを会わせなくても、こんな終わり方もあるのであって、これもいいではないかと思う。