中にも哀に聞へしは、或る御所の上北面に兵部少輔なにがしとかや云ける者、日来は富栄て楽み身に余りけるが、此乱の後財宝は皆取散され、従類眷属は何地共なく落失て、只七歳になる女子、九になる男子と年比相馴し女房と、三人許ぞ身に添ける。都の内には身を可置露のゆかりも無て、道路に袖をひろげん事もさすがなれば、思かねて、女房は娘の手を引、夫は子の手を引て、泣々丹波の方へぞ落行ける。誰を憑としもなく、何くへ可落著共覚ねば、四五町行ては野原の露に袖を片敷て啼明し、一足歩では木の下草にひれ臥て啼き暮す。只夢路をたどる心地して、十日許に丹波国井原の岩屋の前に流たる思出河と云所に行至りぬ。都を出しより、道に落たる栗柿なんどを拾て纔に命を継しかば、身も余りにくたびれ足も不立成ぬとて、母・少き者、皆川のはたに倒れ伏て居たりければ、夫余りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見へたる内へ行て、中門の前に彳で、つかれ乞をぞしたりける。暫く有て内より侍・中間十余人走出て、「用心の最中、なまばうたる人のつかれ乞するは、夜討強盜の案内見る者歟。不然は宮方の廻文持て回る人にてぞあるらん。誡置て嗷問せよ。」とて手取足取打縛り、挙つ下つ二時許ぞ責たりける。女房・少き者、斯る事とは不思寄、川の端に疲れ臥て、今や今やと待居たりける処に、道を通る人行やすらひて、「穴哀や、京家の人かと覚しき人の年四十許なりつるが、疲れ乞しつるを怪き者かとて、あれなる家に捕へて、上つ下つ責つるが、今は責殺てぞあるらん。」と申けるを聞て、此女房・少き者、「今は誰に手を牽れ誰を憑てか暫くの命をも助るべき。後れて死なば冥途の旅に独迷はんも可憂。暫待て伴はせ給へ。」と、声々に泣悲で、母と二人の少き者、互に手に手を取組、思出河の深淵に身を投けるこそ哀なれ。兵部少輔は、いかに責問けれ共、此者元来咎なければ、落ざりける間、「さらば許せ。」とて許されぬ。是にもこりず、妻子の飢たるが悲しさに、又とある在家へ行て、菓なんどを乞集て、先の川端へ行て見るに、母・少き者共が著たる小草鞋・杖なんどは有て其人はなし。こは如何に成ぬる事ぞやと周章騒ぎて、彼方此方求ありく程に、渡より少し下もなる井堰に、奇き物のあるを立寄て見たれば、母と二人の子と手に手を取組て流懸りたり。取上て泣悲め共、身もひへはてゝ色も早替りはてゝければ、女房と二人の子を抱拘へて、又本の淵に飛入、共に空く成にけり。今に至まで心なき野人村老、縁も知ぬ行客旅人までも、此川を通る時、哀なる事に聞伝て、涙を流さぬ人はなし。誠に悲しかりける有様哉と、思遣れて哀なり。
これが公務員の話というのがつらい。戦乱で棒給も家財も失って町にさまよい出た一家だが、飢えてどうしようもなく行きだおれていた。夫はなんとか物乞いをしたが、侍に掴まって拷問されてしまう。女房と子どもは噂を聞きつけ、夫の死に後れまいと入水してしまう。食料を持って妻子の元に帰った夫だが、すでに遅し。見ると井堰に妻と二人の子どもが手を取りながら引っかかっていた。夫は、彼らを抱えて淵に飛び込んだという。
例えば、芥川龍之介「羅生門」など、こういう話を下敷きに読むのが適当かも知れない。死への理屈なき抵抗というものがそこに描かれている気がするからである。考えてみると、上の役人はそこそこ学もあったにちがいない。これにくらべて、羅生門の下人など、京都が滅茶苦茶になっていても、内面的なショックをあまり受けていないのではないかと疑われる。
いまの日本だってヒドイもんだが、それでもその崩壊過程に於いて一番傷つけたのは人の心であって、――いま耐えられているのは、すでにいい加減に生きてきた証拠である。いまの年老いた政治家がその意味で信用できないのは当然である。
すなわち、いまどき軽く「家族の絆」とか抜かしているやつは、上の「飢人投身事」を熟読していただきたい。ある意味で、公務員的、というより、ブルジョアジーのひ弱さと観念性がつくったのが「絆」なのであり、中国大陸に気分の子どもを託して死んだ満州難民の方がまだ事態を飲み込めているとえばいえないことはないのだ。
しかし、それは理屈の上の話である。絆なんてもんは、言葉にしてはいけないものなのである。なぜこの程度のことを今の日本人は忘れているのであろうか。