教育は、文化の維持と発展の実践である。それは文化的な最低限度の生活という理念と一体であり、それが我々が生存している意味になっている。こうでもしとかないと、国家は、教育を「こども」の為「だけ」に行ないかねない。子どもを単体として捉える場合、子どもは労働者として馴致されてない大人にすぎず、文化の表現であるべき存在から滑り落ちてしまう。ほっておくと、軍事工場で子どもを無償で働かした前科があるわれわれである。むろん、当時も、それが「子どものため」だったのである。健康のためにもだらだら本を読むよりもよかったわけだし、国家のために働くことは陛下に庇護される『子』として「ためになった」。子どもはそもそも概念であり、大人への発達段階ではなく、子どもを文化概念の一部として捉える必要がある。(大人と対等という意味ではない。現実的にそうでないものは対等にはならない)
生きる力とか、子ども庁とか、――現実的な問題が切迫していることは分かるが、子どもを救うことは子どもを自由にすることでなければならない。救いというものの厄介さは、大概、もともと我々は自由であるという自明の理から、またもや我々を回避させてしまうからである。オウム真理教の救いも、アニメーションによる救いもそうであった。宗教や文化は、――ほんとは、純粋に娯楽として存在していなければならない気がするのである。マジンガーZの頃は、まだ娯楽だった気がするのであるが、そのあとの苦労する子どもたちの戦争ものから様子がおかしい。明らかに救いの手段となった気がする。
潜在的に、我々は子どもを救済の対象としてみるようになった気がするのである。むろん、自分達が救済の対象だからで大人たちは鏡を見ているに過ぎない。必要なのは、救済ではなく自由である。自由がないから誰かによって救済するしかないところに追い込まれるわけだ、我々は自らを自らで救う自由がない。
次には人の和に付て思案を廻し候に、今度畠山が上洛は、只勢を公義に借て忠賞を私に貪んと志にて候なる。仁木・細川の一族共も彼が権威を猜み、土岐・佐々木が一類も其忠賞を嫉まぬ事や候べき。是又人の心の和せぬ処にて候はずや。天地人の三徳三乍ら違ひ候はゞ、縦敵百万の勢を合せて候共、恐に足ぬ所にて候。
よくわからんが、――現実には、褒美を貰おうとして突進する「自由」を舐めない方がよいと思うのである。人の和がないからといって、米国軍を舐めていたら、相手はお菓子を舐めながらたくさん爆弾を振らせてきた。そりゃ、米国の精神には問題があるかもしれん。しかし、腹が減っては戦は出来ぬという自明の理を理解している連中だけが世の中を動かせる。
がんばれなかったやつにお金と自由を与えてなんぼだということがいつになったら分かるのであろう?