★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

兄弟惨殺

2021-04-07 23:10:03 | 文学


執事兄弟、武庫川をうち渡りて、小堤の上を過ぎける時、三浦八郎左衛門が中間二人、走り寄りて、「ここなる遁世者の、顔をかくすは何者ぞ。その笠ぬげ。」とて、執事の着られたる蓮の葉笠を、引っ切って捨つるに、ほうかぶりはずれて片顔の少し見えたるを、三浦八郎左衛門、「あわれ敵や、願うところの幸いかな。」と悦びて、長刀の柄をとり延べて、胴中を切って落とさんと、右の肩先より左の小脇まで、きっさきさがりに切り付けられて、あっと云うところを、重ねて二打ちうつ。打たれて馬よりどうと落ちければ、三浦、馬より飛んで下り、頸を掻き落として、長刀のきっさきに貫いて、差し上げたり。越後入道は、半町ばかり隔たりてうちけるが、これを見て、馬を懸けのけんとしけるを、あとにうちける吉江小四郎、鑓をもって背骨より左の乳の下へ突きとおす。突かれて鑓に取り付き、懐に指したる打刀を抜かんとしけるところに、吉江が中間走り寄り、鐙の鼻を返して、引き落とす。落つれば首を掻き切って、あぎとを喉へ貫き、とっつけに着けて、馳せて行く。


高師直・師泰兄弟は、道心もないのに?僧になって逃げていた。じつに、覗き横恋慕事件、天皇木彫り発言事件など、めちゃくちゃに書かれている高師直であるが、太平記に限らず、日本人の悪口というのはまったく信用できない。この場合もかえって悪口大王語り手のゲスさをあらわしている。兄弟の最後も悲惨なものであり、――こういう場面で興奮する読者のために書かれているということである。

本質だけが問題だ。文学は、その入り口でもあり得るが、虚飾で覆われることもある。――我々の生そのものである。

いまの学生の特徴として、恥をかきたくないというのがある。観察するに、むしろ一対一の師匠と弟子みたいなのを好む気がする。そういう意味でも、学校の集団指導というのはもう限界に来ている。この集団指導というのは、そもそも個の自立を集団内でも果たせるエリートを前提にしたもののような気がするのだが、これを普通の人々にほどこすと、小学校みたいな社会への順応機関は意味があるかも知れないが、それ以上は、群れへの埋没を促すだけなのである。それでかえって、これを押さえ込むために、管理みたいなものが招来してしまうのだ。

しかしながら、大人になって、そこまでただ一人に親身になってくれる師匠って実際問題そんなにいるのであろうか?まず能力がなきゃ選ばれんでしょうが。恋人よりも更に厳しいぞ、それは……。誰も親身になってくれない状態でこそがんばれるようでないとどうしようもないんじゃないかな、現実問題として。で、やっぱりそういう庇護者が現れない場合(実際、そんなにいないんだから――)、自分の無能がバレないように群れの中に自分を消す、か。ひとりでもがんばれよ、どうでもいいけどさ

思うに、上のような高師直に対する激しいあざけりは、威張っていたけれども負けた人間に対する、有象無象の読者の溜飲を下げる効果があったのだと思う。結局、この場面が二人の兄弟であるところも気になるところだ。有象無象からすると、目立つリーダーレベルの同志というのは「つるんでる」というイメージが加わって、特別に怨嗟の対象なのである。実際、いまの日本のようなものでも、リーダ-は、二人か三人と存在としてアンサンブルを奏でている。対の芸術というか。

ぴようぴようと吠える、何かがぴようぴようと吠える。聴いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遣瀬ない声、その声が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる。
 萩原君。
 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。
 又更に君と室生君との芸術上の熱愛を思ふと涙が流れる。君の歓びは室生君の歓びである。さうして又私の歓びである。


――北原白秋「序」(朔太郎「月に吠える」)


こういうのを政治でもやろうとするやつがいるはずだ。もともと政治というのはそういうものかもしれない。傍から見るとそびえ立つ二つの㋒ンチにみえたりもするのであろうが……。