其後又宰相中将義詮朝臣、御方に可参由を申て、君臣御合体の由なりしも、何か天下を君の御成敗に任せたりし堅約忽に破て、義詮江州を差て落たりしは、其偽の果所に非ずや。又右兵衛佐直冬・石堂刑部卿頼房・山名伊豆守時氏等が、御方の由なるも、都て実共不覚。推量するに、只勅命を借て私の本意を達せば、君をば御位に即進する共、天下をば我侭にすべき者をと、心中に挟者也。
面従腹背は他人からの悪口で、本人からすれば確固たる行動でなければならない。「天下をば我侭にすべき者をと、心中に挟者也」でもよいのだが、いかなる目的がそこにあるか、である。どうしてもそれがないような人が多い。どうしたら天下を取れるかみたいなのが目的になっている人間など論ずるに値せず。
何をするかではなく、何になるかが目的化すると、手段に対する検討がおろそかになるのは当然であるが、これは学問や評論の世界でも似たようなことがあり、同じようなものを見ようとすると、個々の事象がぼやけて見えてくる。そこに怒りなどが加わると自分が何を主張しているか自体もぼやけ始める。
わたしの年長の知り合いで吉本隆明の熱烈なファンがいて、なかなか鋭いことを述べることもあるのだが、事実確認みたいなことが信じがたいほど苦手である。事実から積み上げることができずに構造的なもの、本質みたいなところに突然とび、しかもそんなに間違っていない。最近は〈エビデンス物神崇拝〉によって逆な人も多いなかで希少価値があるとおもうが、吉本の時評などにある罵倒癖までうけついでいて結局、その怒りだけがいつも燃えさかり、大した仕事をしていない。吉本好きと吉本を分けるものはいろいろあるが、結局初期歌謡論みたいなものをしつこく書けるかによる気がする。
そういえば、昔学会の帰りに考え事してたら新幹線を逆方向に乗ってしまったことがあって、日本の和歌の世界はこの逆方向に行かないみたいな歯止めになっていることがあるように思う。ある意味、この世界は日本文化なりの「コモンセンス」の在処なのではなかろうか。小野十三郎はその点、間違っていたのかも知れなかった。
最近、ある学問の業界で、ネット上のミソジニー的なハラスメント事件があって、その当事者が、一揆とかの専門家だったのが気に掛かっている。筑摩から出ているその本を読んでみると、案外此の人は、事実から積み上げるひとに見えて、構造的な何ものかに激しいジャンプをする人であって、――実は、この傾向は、此の業界に限らず、私の年代から10年ぐらい下までの特徴ではないかとも思われる。これは内発的なものではない。強いられたわかりやすさへ志向と批判精神の発露の内攻によってそれは顕れたように私には思われるのである。
併しすべて平和で來た時代のみが文化の盛んになる時ではありませぬ。引續き足利時代となり、其中頃から戰國となつて、文化の上においても殆ど暗黒時代を現はしたが、其間に自然に獨立思想がだんだん行亙つて、さうして日本は神國であつて日本は特別な國體だといふことが、この暗黒時代において一般に浸みわたるやうになつて來たのであります。
――内藤湖南「日本文化の独立」
思うに、この「独立」志向は、ある種のファクトの無視によってなりたつところがあったのではなかろうか。和歌をのんびり詠んでいても仏典を読んでいてもこうはならない。文化はファクト的なものである。頭に血がのぼったためにホップズ的真実だけを射貫いてしまい、それが天皇を王と思わないことに繋がり、権力奪取だけが目的と化した結果、更にパッションそのものが真実と化してしまう。