
さらば吉野殿へ奏聞を経て勅免を蒙り、宣旨に任せて都を傾け、将軍を攻め奉らんは、天の忿り人の譏りもあるまじとて、直冬潜かに使ひを吉野殿へ進らせて、「尊氏の卿・義詮朝臣以下の逆徒を可退治由の綸旨を下し給ひて、宸襟を休め奉るべし」とぞ申されける。伝奏洞院の右大将頻りに被執申ければ、再往の御沙汰迄もなく直冬が任申請、即ち綸旨をぞ被成ける。これを聞きて遊和軒朴翁難じ申しけるは、「天下の治乱興滅皆大の理に不依と云ふ事なし。されば直冬朝臣を以つて大将として京都を被攻事、一旦雖似有謀事成就すべからず。その故は昔天竺に師子国と云ふ国あり。この国の帝他国より后を迎へ給ひけるに、軽軒香車数百乗、侍衛官兵十万人、前後四五十里に支へ道をぞ送り進らせける。日暮れてある深山を通りける処に、勇猛奮迅の師子ども二三百疋走り出で、追つ譴め追つ譴め人を食ひける間、軽軒軸折れて馳すれども不遁、官軍矢射尽くして防げども不叶、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人、一人も不残喰い殺されにけり。
このあと、天竺の話がつづくのであるが、――果たして、この話が天の理に従えという説教に説得力をもっているかどうか、わたくしにはいまいち分からない。雨月物語の白峯でかたられているように、理を乗り越えてしまう怨念、――というより、怨念と意識されないなにかに突き動かされていってしまっているのが、このひとたちであり、名目上?天皇や親子関係というものの呪縛が意識されてはいるけれども、一度何かが起これば、そんな呪縛はもうほとんど働いていないのではなかろうか。
こんな状態で、理と道徳を説こうとした人々がいかに大変だったかは想像に余りある。
よく分からないのだが、神仏習合には、もうとりあえず滅茶苦茶になっている人々に対して使える物はすべて使おうとした結果である側面は本当にないのであろうか。その「習合」は融合ではなく、熊野詣にみられるように「一度死んで冥途から帰る」みたいな往復運動のような気がする。帰ってきても、家や近所にはまた別の神がいる。わたくしの感覚だが、そこには人生を旅程になぞらえて、あちらとこちらのどちらも否定できないことで、辛うじて道徳を一元的に内面化しなくても、どのつどの使える物にすがるということで、なんとなく「道」に反しない気がする。我々が道徳ではなく「道」が好きなのはその意味で当然のような気がする。人生は、ダンテの描くように、もしかしたら地獄に堕とされる人々のように、行為と一体化した人格のようなものかもしれないのだが、我々は、人生を道程に喩えて切り抜けるのだ。
罪を犯した人間は、最近のサブカルチャーに到るまで大概旅にでる。
旅に出たらよけい罪を背負ったオイディプスとはえらく違う。わたくしは「大菩薩峠」の主人公が生悟っていなければ、もう少しまともな戦後世界があったのではないかと思うくらいだ。