★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

孥戮

2024-03-01 23:38:15 | 思想


王曰:「嗟!六事之人,予誓告汝:有扈氏威侮五行,怠棄三正,天用剿絕其命,今予惟恭行天之罰。左不攻于左,汝不恭命;右不攻于右,汝不恭命;御非其馬之正,汝不恭命。用命,賞于祖;弗用命,戮于社,予則孥戮汝。」

上のように、妻子をいっしょに殺すという「孥戮」という言葉があるけど、いまだってネットリンチなどで家族もろとも葬ってしまうことがあるわけだが、道徳的に驚いている場合ではなく、我々がやりがちなことをちゃんと昔のひとが言葉にしてくれているわけである。しかもそれは、お上の言うことを聞かないときに行われる殺人なのである。いまだってあまりかわらない。お上が道徳や社会になっただけの話である。

漢文にはこういうわれわれがやりがちなことが沢山描いてある。道徳を抽象化するだけではだめなのを昔の人はよく知っていた。

「十九歳の地図」は、主人公の家族についてはたしかほとんどでてこなかった。かれは本文にあるようにがらんどうな人物でそこから言葉や涙が出てくる。これは一体なんなのだと思うが、一方で中上は孥戮を家族自らがやってしまうような世界を描いているから、その空白がありえたのだ。われわれのほとんどにはそれがない。だから平気で他人をリンチにかけてしまう主体になってしまう。特急だかの爆破予告をする主人公には、言葉だけしかない。ネットには、そういう言葉しかない言葉と、躊躇いなく「予則孥戮汝」と言ってしまう言葉とが混在している。これは人間的ではない、だから危険なのである。

吉永小百合が出ていた昔の映画「新幹線大爆破」をリメイクだかリブートだかする情報が流れてきたが、これをしてもたぶんつまんないから、「十九歳の地図」をリメイクして現代の貧乏学生の琴電への脅迫電話、琴電大爆発とみせかけて、ことちゃん・ことみちゃん怒りの大逆襲、南海トラフを阻止みたいな楽しい映画をたのむ。。。みなの「予則孥戮汝」を虚構に解放しなくては、我々は言葉を自らの空白の結果ではなく、信じ始めてしまうからだ。

例えば、虚構への解放ということをよく知っている書き手に三谷幸喜がいる。彼の大ヒット作「ラヂオの時間」て、原作の脚本がいろんな都合でめちゃくちゃになってゆく話だが、これは脚本の崩壊過程がほぼその脚本の生放送中におこるという、良くも悪くも何とか出来る状況の設定と、そもそも三谷の脚本でほころびを全部縫い合わせる離れ業で、結局笑えるいい話になってしまったわけだ。これが三谷の虚構への解放への信仰である。しかし、現実においてははほころびを縫い合わせる神はいない。原作に対する傷が社会的には適度に浅くしかも取り返しがつかない傷であり、脚本が映像になってゆく現場においては、もっと長い時間をかけてまったく笑えない不可逆的状況が出現する。三谷幸喜の脚本は、もちろんそういう情況を知って書かれているのだ。――内情の暴露と隠蔽、問題の深刻さと笑いは恒にセットになっているのはフィクションの特質で、彼はそれをよく知っているのである。

彼の場合は、だからつねに目前にあるのは、生起する現実である。しかし、虚構を扱うのは、こういう文章の生産者だけではなく、国家や国民もいる。それが近代社会においては分離しておらず一体化しているのはよく知られた事実である。その国民国家体制はその体制の体質として、自国の古い文化を反芻してどういう肥大化をとげるか決めている。季節風のように吹いている古典漢文不要論もその反芻の一動作であって、むしろ古典漢文を国民が過剰に意識していじくり回していることを示してはいると思う。明治以来つづく通常運転で、結局この反芻においては、当時のはやりの近代文学やマンガなどの傍らで、古典漢文は嫌われながら、勘違いされながら、持続的にお勉強されてゆくにすぎない。そんなことは関係ないところでちゃんと研究して自分たちのことを考えるのが学者や文化の担い手の責任である。これを読者論だかメディア論は無視して、文化の民主主義化を高唱してしまったのである。

近代芸術においては、特に享受者との関係は複雑な歴史があるから雑なことは言えないが、古文漢文クラシク音楽能楽その他様々なものは、ある種の階級のコミュニケーションや趣味に結びつきがちだったし、実際認識の問題として結びつけてしまうのは簡単なんだ。でもそれじゃいかんという大革命を遂行中なのである。ソ連や中国の大衆の名による大弾圧の逆を行こうというのだ。教師をやってみたことのあるひとはみな知ってるし、親でさえみな知ってることだが、ほとんど勉強というものはすぐには役には立たないしそもそも知識のほとんどは身につかない。勉強のできないとされた子どもの哀しみを思うべきだ。しかし、それとは逆にみなに平等に知を散布する方が「平和」なんじゃねえかな。知は食べ物みたいなものでとりあえず配っとくのがいいんだ。直感的にそんな気がする。

小学校もろくに行かなかっただろう祖父や祖母の世代のプロレタリアートは、勉強しかできない輩みたいなかんじでインテリを馬鹿にするところはあったが、役に立つか立たないかで勉強を判断することはなかったんじゃないかと思う。それを言うにはあまりに知から疎外されていたからだ。対して、現代のコスパさんたちにはブルジョアな半端な優等生の未練がましさがつきまとう。理解をテストの点数みたいに考えると、分かりやすく与えるべしみたいな発想になってしまい、たしかにそういうものも必要ではあるんだが、ただ単に教科書に載っているだけとか入試に出ただけみたいな与えられ方でも十分機能ははたすのである。逆に、全国民にある一定の理解を要求するのは危険だ。そういうのを全体主義というのである。教育に於いては、近代文学、漫画や映画、俗悪なしかも高度な娯楽とともに、古典はその重要な参照元として大量に雑多に投与されるべきだ。

そういう大量投与とは逆なことが起こっているにもかかわらず、――知からの疎外が起こっていないというのが、現代のプチブルの勘違いなのだ。地方のマスコミはもちろん、たぶん中央でもそうであろうがマスコミの取材能力はかなり落ちていると思うし、全体的に口が硬く飲み会も減ってリアルに情報からの疎外が起こっているから、むしろ、現代は情報不足の世の中なのである。ネット時代なのに大谷氏の結婚に気付かなかったのかみたいな事を言う人は、ネットを密告システムのように捉えているといへよう。確かに実際にはそうなんだけど。

そんな情報不足のよのなかで、それを要領よく身につけるみたいな頭の悪い競争を強いていてもしょうがない。例えば、受験による輪切りで屈辱的な扱いを受けている多くの子どもに寄り添って自分なりの成長に向かって頑張ってもらうみたいな、よくある考え方が邪悪なのは、そもそもそんな競争をはなから諦めたり、くだらないと思うことが許されないからである。学校の先生になるひとは自分の成績に未練があるタイプがいるせいか、どうしてもこういうことに陥りがちだ。人の気持ちがわかるというのは、単なる寄り添い如きでなされるもんじゃないのがとてもよくわかる。むしろ、人の気持ちを破壊するために寄り添ってしまうわけだ。呼び出された親御さんと子どもはまさにそのときに「孥戮」される。