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上天同雲 雨雪雰雰
益之以霢霂 既優既渥
既霑既足 生我百穀
冬の雲から降る雪が素直でよい子という感じがする。つまり、雪の時点で穀物が生えてくる気がする。雪すらも子どものようだ。
子どもみたいな知というのもあり、古びた戦後に堪えられないせいでもあろう。ネット上における言語の氾濫は世界を変えたししかも余り良くねえなという意見もあるだろうが、――そもそもその前にやくざな本が多すぎる状況があったことを忘れてもらっては困る。
最近、中年以降の人文学という研究テーマが必要かもしれないと思い始めた。ついこのあいだ、老いを相対的に低く概念的に扱った文章を書いてしまったので。。脱稿した瞬間から後悔があったのである。中学の時に柴田翔の小説かなんかで、若くして老いちゃったどうしようみたいな記述があるのを読んで、この人はまだ本気で言ってねえなと直感したものであるが、個人の老いよりも深刻な老いというものがあるわけだ、それは分かる。八〇年代の危機は、そういう老いから始まっている。学生運動家たちが絶望して一気に老いたのも確かだろうが、それいじょうに、老いを感じていた人がたくさんいたことをラデイカリズムは自覚していたのであろうか。